ジオ日本 学びの旅

  • 東日本大震災の伝承施設を訪ねる

    2011年3月に発生した東日本大震災の死者・行方不明者は計22,000人を超えますが、死者の9割以上が津波によるものです。

    なぜこれほど多くの人が命を落としてしまったのか、それを伝える施設が被災した各県にあり、震災の記憶を風化させないため、訪れた人に是非知ってもらいたいことを説明する語り部など、関係者が熱心な活動を続けています。すぐに逃げれば助かったはずなのに逃げなかった、逃げられなかったという悲痛な思いを、私たちはどう受け止めればよいのでしょうか?
    もちろん震災前、津波に関する記録や言い伝えがあり、沿岸部に住んでいる人の知識もありました。しかし実際にそれまでに大津波を経験してきたわけではありません。自分のところまで津波が来ないとの思い込みや津波についての誤解がたくさんあって、大きな災いを産んでしまったとも言えます。大きな津波が来るという情報が伝わらなかった事例もたくさんあります。地震直後に家族を探しに行って津波に遭ってしまった人も多くいます。津波による死は、自然災害であると同時に、判断と行動の問題でもあったということです。伝承施設で事実を知ることにより、後から考えれば合理的でない判断だとされる行動が極めて多くの命を奪ったことについて、深く考えるきっかけになります。
    ここでは、宮城県にある震災伝承施設を紹介します。

    南三陸311メモリアル〈道の駅さんさん南三陸 内〉
    宮城県本吉郡南三陸町志津川字五日町200番地1
    「防災減災について、自分ごととして考え続けるきっかけを提供する施設」がコンセプトで、町民たちの言葉や語りなどを震災伝承の柱にしながら、事実を知るだけではなく、「もし自分がそこにいたら、どう考え行動するか」を1分間の対話タイムで考えるラーニングプログラムなどを提供しています。また、行政の情報伝達の課題、防災無線の限界についても考えさせられます。

    南三陸311メモリアル
    館内の展示

    私は、メモリアル施設見学の後、南三陸さんさん商店街のフードコートで、新鮮な魚介の詰まった海鮮丼を頬張りました。

    南三陸さんさん商店街
    南三陸さんさん商店街の店舗
    フードコートにはこたつ席も
    海鮮丼と蟹だしの味噌汁

    石巻南浜津波復興祈念公園
    みやぎ東日本大震災津波伝承館
    宮城県石巻市南浜町2丁目1−56
    石巻市は約4,000人が亡くなった最大の被災市町村で、その中でも南浜地区は津波と火災に襲われ、500人以上が亡くなりました。この地区の集落の跡を整備した石巻南浜津波復興祈念公園は、亡くなられた方々を追悼し、記憶と教訓を伝承し、復興への強い意志を国内外に示す目的で作られました。

    石巻南浜津波復興祈念公園。震災前の街並みの写真も表示されている

    この公園の中に、みやぎ東日本大震災津波伝承館があります。この施設は、震災の記憶と教訓を永く後世に伝え継ぐとともに、宮城県内の震災伝承施設などへ誘うゲートウェイの役割を果たしています。リアルな津波の映像や被災者の証言等によって「逃げるしかない」ことを訴える映像や、震災伝承施設、語り部活動を行う団体、地域の取組みの紹介などにより、わかりやすく学ぶことができます。

    石巻市震災遺構門脇小学校
    宮城県石巻市門脇町4-3-15
    地震が起きた後、学校にいた児童や教職員たちは裏手にある日和山(ひよりやま)に避難しましたが、地震から約1時間後に巨大津波が襲来し、火災が起こりました。体育館や展示館では、津波で破壊された車両、再現された応急仮設住宅、震災の写真や映像、被災者の言葉や記憶表現(詩・絵)などが展示されていて、津波とそれがもたらす火災について知ることができます。

    日和山公園に逃げた人は無事だった

    東日本大震災慰霊碑(日和幼稚園被災園児慰霊碑)
    宮城県石巻市門脇町5-13-15
    日和幼稚園は山の中腹にあり、津波が来る場所ではありませんでした。地震発生時、園内にいた園児たちは全員無事でした。 しかし、揺れが収まった10~15分後、大津波警報が発信されているにもかかわらず、バスは園児を乗せ出発し、園児を保護者に引き渡そうと海沿いの街を走っていて津波に遭い、園児5人が犠牲になりました。

    宮城県石巻市震災遺構大川小学校
    宮城県石巻市釜谷字韮島94番地
    河口から約3.7㎞内陸に位置する大川小には、津波は到達しないと思われていました。地震発生後、児童たちは校庭に避難しましたが、避難先についての判断が定まらないまま時間が経過し、津波は川を遡上し、校舎の屋根(8.6m)までの高さとなって襲いました。児童74名、教職員10名が犠牲となりました。周囲には低い山もありましたが、そこへ直ちに避難する判断がなされなかったことが、後に大きな議論となりました。

    東松島市東日本大震災復興祈念公園
    東松島市震災復興伝承館
    宮城県東松島市野蒜字北余景56-36(旧JR野蒜駅)
    仙石線野蒜(のびる)駅で上りと下りの列車がほぼ同時に発車してすぐ、激しい地震が襲ってきました。非常停車した上り列車の乗務員は、直ちに梯子で乗客を降ろし、指定避難場所である野蒜小学校へ誘導しました。人のいなくなった駅舎も上り列車も、その後に襲った津波に飲み込まれ、大きく破壊されました。一方、下り列車の停車した場所は野蒜小学校まで距離があるため、そこまで歩いて行くのが危険であり、列車が止まったのがやや高い位置だったので、列車内に留まると判断しました。周囲は津波で水浸しになりましたが、幸いにも列車まで水が到達することはありませんでした。全員が列車内で一夜を過ごし、翌日、避難所に退避しました。
    震災後、野蒜駅を含めて仙石線の線路は高台に付け替えられ、旧駅舎が保存されて東松島市震災復興伝承館となり、また付近は東松島市東日本大震災復興祈念公園として整備されました。

    震災遺構仙台市立荒浜小学校
    宮城県仙台市若林区荒浜字新堀端32-1
    地域の指定避難場所だった小学校ですが、海岸から約700m離れた同校には、2階まで津波が押し寄せました。しかし、避難した児童や教職員、地域住民など320人全員が助かりました。校舎をそのまま遺構として保存・公開しています。どのような判断と行動が命を守ったのか、時系列で学ぶことができます。

    かつての荒浜を模型で展示

    名取市震災メモリアル公園
    津波復興祈念資料館 閖上の記憶

    宮城県名取市閖上東3-5-1
    かつて5,000人以上が暮らしていた閖上(ゆりあげ)地区は、津波で壊滅的被害を受けました。閖上中学校の14人の生徒を含む800人近くが津波の犠牲となりました。現在この場所は名取市震災メモリアル公園として整備されており、また日曜日には朝市が行われています。

    かつての閖上の航空写真
    閖上から望む蔵王連峰

    館内では、旧閖上中学校で実際に生徒たちが使っていたロッカーや、亡き生徒の遺品、痕跡から津波の高さが確認できるドアなど、震災の記憶をたどる展示物や映像資料を、館内常駐スタッフの案内で見ることができます。海と名取川河口に近い閖上地区に、どのように津波が押し寄せたのか、発災当日の時系列を、写真・映像・体験証言を通して具体的に知ることができます。館内の語り部ガイドのほか、出張語り部、オンライン語り部にも取り組んでいます。

    閖上では地震から津波到達まで約1時間あったにもかかわらず、なぜこれだけ多くの死者が出てしまったのか、名取市の東日本大震災第三者検証委員会が調査して報告書をまとめました。
    閖上を含む仙台平野では、三陸沿岸のような大津波の経験が少なく、住民の間に、津波はこの地域までは来ないという認識が広がっていました。地震直後に避難した人は2割程度で、多くの人は家族の安否確認、近所との情報交換、家の片付け、避難準備などをしており、避難の開始が遅れました。また、津波警報や避難情報が十分伝わりませんでした。地震で停電してテレビは見られず、防災行政無線が故障していたこともあって、市の避難呼びかけを聞いた人は2割程度でした。避難手段の約6割が自動車で、道路渋滞が避難の遅れにつながりました。また、避難場所の閖上公民館についての認識が「津波避難」ではなく「災害時の避難所」だったため、公民館のグラウンドで様子を見て建物の2階に上がらないという人も多くいました。さらに閖上中学校などへ移動する人は、移動中に津波に遭いました。多くの住民は、実際に津波、黒い水の壁を見て初めて危険を感じたと証言しています。

    山元町防災拠点・山下地域交流センター
    宮城県亘理郡山元町つばめの杜1-8
    防災情報コーナーではさまざまな媒体を通し、津波災害の伝承や防災教育への活用、防災意識を高めることを目指し、パネル展示などが行われています。また、震災関連書籍を多数所蔵しています。この施設は、内陸に付け替えられた常磐線の山下駅の隣にあります。

    現在の山下駅
    山下駅ホームから旧駅舎方面を望む

    伝承施設は各地に整備されていて、実際に災害を体験した方々の努力で、津波などへの被災の状況についてわかりやすく学ぶことができます。犠牲になった方々に祈りを捧げつつ、命を守る行動について考えるために、是非お出かけください。

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  • 関東大震災を学ぶ史跡めぐり

    東海道線根府川駅は、相模湾に面した標高45mの風光明媚な駅です。大正12年9月1日、ここは開通したばかりの熱海線の駅でした。この駅に差しかかった下り列車は、関東大震災となる大正関東地震の激しい揺れに襲われて非常停車しましたが、地震が引き起こした土砂崩れでホームもろとも流されてしまい、最後尾の2両を残して客車6両と機関車が海の中に沈みました。死者は110人とも130人とも言われています。また、付近の白糸川の河口付近の集落は、山からの土砂と海からの津波によって壊滅しました。激しい揺れは各地に大きな土砂崩れを引き起こしました。

    風光明媚な根府川駅
    根府川駅にある関東大震災慰霊碑

    この地震は、首都直下型ではなく海溝型です。相模湾を中心とした震源域、マグニチュード7.9と推定されています。高い津波があっという間に伊豆半島、相模湾沿岸、房総半島などを襲いました。
    当時日本一の高さを誇ったレンガ造り12階建ての浅草の凌雲閣は、地震の揺れによって8階で折れてその上が大破し、多くの死者を出しました。東京では堅固に見えた西洋建築の多くの建物が倒壊しました。その激しい揺れに耐えたのは、辰野金吾博士が設計して震災の9年前に完成した、赤レンガの東京駅舎でした。辰野博士は、地震の多い日本では欧州の建築方法は通用しないと考え、レンガに鉄筋を埋め込んだのでした。

    復原された東京駅丸の内駅舎
    レリーフに飾られたドーム天井

    揺れの激しかった房総半島南部の被害は大きく、館山ではほとんどの家屋が倒壊しました。震災1年後に館山市腰越の延命院に建てられた碑には、「大きな震えに見舞われ、山は崩れ家屋は悉(ことごと)く倒れ、人が死に負傷した。天皇陛下は御下賜金を賜いこれを救った。」と記されています。

    館山の見物海岸。上段が元禄地震、下段が大正関東地震による隆起
    関東大震災の記録を伝える館山市立博物館の企画展

    関東大震災は10万人を超える死者が出た大災害ですが、死者の9割以上は火災によるものでした。

    両国駅(当時は両国橋駅)北方にあった陸軍被覆廠は震災前年に移転し、そこは広い空地になっていました。地震が起こり多くの人々がここに避難しました。そこへ火災旋風が襲い、避難者たちが持ち込んだ家財道具などに着火し、台風の影響による強風に煽られて火の海になってしまいました。被服廠跡地で3万8,000人もの命が奪われました。

    両国の回向院
    回向院境内にある関東大震災碑

    神田和泉町・佐久間町の住民は、川の水をバケツリレーで運んで建物に水をかけ、燃えやすい建物を取り壊すなど、協力して必死に消火・防火作業を行ったため、広範な被災地域の中にあって島のように町が残りました。この話は紙芝居になって語られましたが、戦争中にこの紙芝居が教材として使われたため、戦後は忘れられました。
    昭和5年には陸軍被覆廠跡に横網町公園が開園し、震災慰霊堂が建てられて遺骨が収容されています。また翌年には関東大震災とその復興を後世に伝えるための復興記念館が完成しました。その後戦災による身元不明の遺骨を合祀する形で慰霊堂は「東京都慰霊堂」と改称され、復興記念館とともに当時の悲劇を現在に伝えています。

    東京都慰霊堂
    東京都慰霊堂内
    東京都復興記念館
    東京都復興記念館の展示

    東京都復興記念館
    東京都墨田区横綱2-3-25
    電話: 03-3622-1208

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  • 阪神・淡路大震災を学ぶ施設と史跡めぐり

    野島断層保存館、人と防災未来センター

    1995年1月17日に起こった阪神・淡路大震災は、戦後経験したことのない大きな災害でしたが、それでも鉄道関係者は最悪を免れたと感じました。地震発生は5時46分、激しい揺れによって兵庫県内では新幹線の高架橋も落橋しました。しかし新幹線の営業運転は6時以降となっているため、かろうじて大事故を免れたのです。この落橋の教訓により、その後新幹線を中心に耐震補強工事が大きく進みました。東北新幹線などの橋脚には、せん断破壊を防ぐ補強材が巻かれています。

    東北新幹線の橋脚の補強

    この地震は、直下型地震でした。このタイプの地震は、海洋から動いて来るプレートによって大陸プレートが圧縮され、大陸プレート内部の岩盤が破壊されて起こります。そのプレート内で、長い間に繰り返し動き、これからも活動すると考えられる断層が活断層です。この地震は、淡路島北部の野島断層という活断層、深さ16kmが震源でした。動いた断層帯は、明石市、神戸市を通って西宮市まで伸びています。震源となった野島断層が地表に現れた部分はそのまま保存され、野島断層保存館として見学できます。

    野島断層保存館の外観
    野島断層保存館の入口
    破壊された道路
    断層は2段になって現れている
    断層の断面
    耐震構造のため断層上にありながら倒壊を免れた家がメモリアルハウスとして保存

    大地に横から加わる力は、長い間に地形を大きく変動させます。300万年くらい前からの変動により、隆起した部分は六甲山になり、沈下した部分は大阪湾になりました。
    阪神・淡路大震災の地震で震度7となった地域は、ほぼ神戸市内に帯状に分布しています。この地域にも、戦前に建てられた木造家屋などが多く残っていました。震災による6,400人を超える死者のうち大きな割合を占めるのは、高齢者や女性を中心とした、家屋の倒壊や家具の転倒による圧死です。また、火災による死者も発生しました。

    神戸港のメリケンパークに保存された遺構
    神戸市北野の「萌黄の館」では、屋根上の煙突が落下して庭に刺さってしまった

    震度6から7の地震でも倒壊に至らないための建築基準が制定されたのは1981年でしたが、阪神・淡路大震災で倒壊した建物のほとんどはこの耐震基準を満たしていませんでした。しかし基準に満たなくても、基準の制定以前に建てられたものは「既存不適格」と呼ばれ、そこに住み続けることができます。これが大災害に結びついてしまったため、この反省から、耐震改修工事に補助金を出し、融資を行い、住宅ローンを減税するなど、耐震改修を促進する政策が強化されました。
    日本には地震が起きない場所はありません。これからも、大地震への備えを怠らず、対策を進めていく必要があります。
    神戸市にある「人と防災未来センター」では、大震災当時を追体験できるように、映像、ジオラマ模型、実物資料などが整備され、また体験フロアなどで防災の知識を幅広く習得できます。

    人と防災未来センター
    人と防災未来センター東館

    野島断層保存館
    〒656-1736
    兵庫県淡路市小倉177
    電話: 0799-82-3020

    人と防災未来センター
    〒651-0073
    兵庫県神戸市中央区脇浜海岸通1-5-2
    電話: 078-262-5050

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  • 富士山噴火と歴史を学ぶ施設めぐり

    二つの富士山世界遺産センター

    葛飾北斎「富嶽三十六景」の中で「赤富士」と呼ばれる有名な「凱風快晴」。そのイメージのように、天気の良い夏の早朝、太陽光は波長の短い青色光が散乱してしまい、赤色光が富士山の玄武岩にあたって赤く染めます。

    葛飾北斎「凱風快晴」
    夏の早朝、赤く染まる富士山

    富士山はなぜ、これほど整った円錐型の姿なのでしょうか?
    それは、富士山が噴火を繰り返し、新しい層は10,000年余りという短い期間に粘性の小さい流れやすい溶岩を積み重ねたためです。粘性が大きければ強い爆発はあっても広い裾野を作ることはできないし、長い時間がかかれば山体が削られたり崩れたりして急峻な山容に変化します。富士山の噴火は、山体を削っていく時間を与えずに何度も溶岩を流して、現在の姿を造りあげたのです。

    その前の古富士火山の活動によって、現在の山中湖・忍野八海と本栖湖・精進湖・西湖の地域に二つの湖ができましたが、噴火活動による消長を経て、平安時代、864年の貞観の大噴火が富士五湖を作りました。山中湖の湖面が標高982m、本栖湖・精進湖・西湖は地下水がつながっていていずれも標高902m、河口湖は830mです。

    本栖湖
    精進湖
    西湖
    河口湖
    山中湖

    富士山に川はありませんが、水はけのよい新しい層の下に水を通しにくい層があって、その間の胎内に豊富な水を宿し、麓に湧き水をもたらしています。

    富士山胎内の水が上部の新富士火山層と下部の古富士火山層の境の絶壁から湧き出している白糸の滝
    静岡県富士山世界遺産センター内のカフェ「スプリング」で提供している「富士の湧水ホットコーヒー」

    たびたびの噴火は、人間に大きな災害をもたらしながら、周辺の地形を作り変えました。恐ろしい富士山は、太古から信仰の対象でした。噴火は山の神の怒りと考えられました。駿河国、現在の富士宮市にある富士山本宮浅間大社には浅間大神が祀られていますが、その近くの溶岩流の先端部分にある山宮浅間神社には、遥拝所があります。

    富士山本宮浅間大社
    山宮浅間神社から富士山を遥拝する

    平安時代は噴火活動が活発でした。朝廷は富士山の神「浅間神(あさまのかみ)」を鎮めるために祭祀に努めました。しかし864年の貞観の大噴火で流れた溶岩は、甲斐国に広大な青木ヶ原樹海を作りました。朝廷は甲斐国でも浅間神を祀りました。

    北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市)

    その後、11世紀頃からは、修験者が山中で修行するようになりました。

    村山浅間神社。修験者はこの地を拠点に富士山に登拝した
    村山浅間神社にある興法寺大日堂。興法寺は富士山修験者の中心地だった

    最新の噴火は江戸時代1707年の宝永噴火で、M8.2の元禄関東地震の4年後、M8.7の宝永東海・南海地震の49日後に起きました。高温の軽石や火山灰が登山・信仰の拠点だった須走の集落を壊滅させ、西風に乗って大量の火山灰が江戸などに降り注ぎました。また火山灰は酒匂川などを氾濫させたほか、農作物に深刻な打撃を与えました。
    富士山はいつ噴火してもおかしくないのですが、専門家は、南海トラフ地震の発生が噴火を誘発する可能性を指摘しています。300年余り噴火していない間にたまったマグマが一気に噴き出せば、大きな被害になります。富士山が噴火した場合の被害について、噴石、溶岩流、火砕流、泥流などを挙げていますが、特に極めて多くの人に被害を与えるのが火山灰です。宝永噴火では江戸に5cmの火山灰が積もったと推定されていますが、その影響は深刻です。火山灰は小さなガラス片でできていて、これを長く吸い込むと気管や肺が傷つけられ、目に入れば眼球や角膜を傷つけます。肌や服に付くとべたべたして取るのが難しく、有毒な物質が火山灰に付着していれば健康被害を引き起こします。また、電気や水道、交通機関などのインフラに被害を与え、コンピューターや精密機器を狂わせ、農作物にダメージを与えるなど、影響は広範にわたります。大規模な噴煙に含まれる火山ガスが硫酸のエアロゾルを成層圏で拡散させれば、気温の低下を引き起こします。(鎌田浩毅監修「富士山噴火」)

    なるさわ富士山博物館

    道の駅なるさわに隣接しているなるさわ富士山博物館の展示やシアターでは、富士山の成り立ちなどの基礎的な知識を得ることができます。また、山梨県立富士山世界遺産センターと静岡県富士山世界遺産センターでは、富士山がどのように信仰の対象になり、芸術を育んだかなども学ぶことができます。

    山梨県立富士山世界遺産センター外観
    山梨県立富士山世界遺産センターの展示
    静岡県富士山世界遺産センター
    静岡県富士山世界遺産センターの館内で、富士登山をイメージして、らせん状のスロープを登っていく

    山梨県立富士山世界遺産センター
    山梨県南都留郡富士河口湖町船津6663-1
    TEL: 0555-72-0259

    静岡県富士山世界遺産センター
    静岡県富士宮市宮町5-12
    TEL: 0544-21-3776

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  • 黒曜石と蓼科山・八ヶ岳山麓の歴史

    黒曜石体験ミュージアム

    八ヶ岳と富士山に背比べのために樋を渡したら水が富士山に流れて八ヶ岳の勝ちとなり、怒った富士山の神様が八ヶ岳の頭を叩き割ったので今の峰々が残ったという伝説があります。

    茅野市から望む八ヶ岳

    特に南八ヶ岳には主峰赤岳(2,899m)をはじめ急峻な峰が連なり、首都圏からのアプローチが良いこともあって登山者の人気を集めています。
    八ヶ岳は、日本列島を分断して南北に伸びる溝であるフォッサマグナの中で誕生した火山で、200万年という長い火山活動の歴史を持ちます。活発だった火山活動の後、特に南八ヶ岳の西側斜面は長い年月の間に風雨が山を削り、この急峻な地形を作りました。

    これに対してややなだらかな北八ヶ岳で、白駒峰が噴火し川を堰き止めてできたのが白駒池です。標高2,115mにある神秘的な池で、周囲には数百種類と言われる苔が群生しています。

    神秘的な天空の白駒池
    白駒池付近の苔の群生
    もののけの森

    八ヶ岳と蓼科山の北西、白樺湖の近くに位置する鷹山(たかやま)。ここに黒曜石原産地遺跡があります。旧石器時代の3万年前から縄文時代にかけて黒曜石を採掘した跡です。
    この辺りは星糞峠と呼ばれていますが、キラキラ輝く黒曜石は星のかけらのようで、中部高地で黒曜石が出土する遺跡は星糞峠のほか、星ヶ塔 、星ヶ台など星の名がつく高原地帯で発見されています。
    黒曜石は、マグマが地上付近で急速に冷えてできる天然のガラスですが、どの火山でもできる訳ではありません。石を加工して道具を作るのは大変な苦労だったと思われますが、鋭い切り口になる黒曜石は加工しやすく、ナイフ状の石器や矢じりなどに使われました。旧石器時代には川底などから拾うことが多かった黒曜石ですが、縄文時代には穴を掘って採掘しました。産地から遠く離れた場所でも使われた跡があります。掘り出された黒曜石は、ふもとのムラからムラへと運ばれていき、ムラを結ぶ道は「黒曜石の道」となりました。八ヶ岳の山麓には、大量の黒曜石が集められた大きなムラが点々と存在していました。そこは良質な信州産の黒曜石を求めて遠くの地域から訪れる縄文人との出会いの場となり、東西文化の交流のネットワークが結ばれていました。

    黒曜石体験ミュージアム

    黒曜石体験ミュージアムでは、石器などの展示や説明から最新の研究成果を知ることができるほか、石器づくりなども体験できます。また徒歩30分に「星糞館」があります。是非お出かけください。

    星くずの里たかやま黒曜石ミュージアム

    長野県小県郡長和町大門3670-3
    0268-41-8050

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  • 箱根の噴火と歴史を学ぶ施設と史跡

    箱根ジオミュージアムで噴火の歴史を学ぶ

    江戸時代、湯本から須雲川沿いに畑宿、芦ノ湖畔の関所を通って三島に向かう街道は、多くの人が行き交い、今も箱根旧街道として知られています。しかし、その前の鎌倉時代、室町時代はこの道でなく、湯本から芦ノ湖までは湯坂道と呼ばれる尾根筋のルートが使われていました。

    精進池

    この湯坂道を登り切った精進池のあたりは、一面に溶岩が作った荒涼とした風景が広がり、天候が変わりやすい難所でもあることから、地獄と呼ばれ、またいつの頃からか賽の河原とも呼ばれました。ここには溶岩を彫って作った地蔵など多くの石仏が見られます。賽の河原で救われるためには、地蔵菩薩にすがるしかありません。

    固い安山岩に彫られた地蔵菩薩
    巨大な安山岩を彫って作られた六道地蔵

    父親を殺された曽我兄弟は恐らくこのルートを通り、かつて弟五郎が仕えていた箱根権現(現・箱根神社)に祈願したことでしょう。富士の裾野で開催された鷹狩りに参加し、首尾よく敵(かたき)の工藤祐経を討ち取りました。戦いで死んだ兄十郎、処刑された弟五郎の兄弟の墓が精進池のほとりにあります。

    芦ノ湖畔にある箱根神社の鳥居
    曽我兄弟の墓

    正月の箱根駅伝の山登り区間では、この近くに標高874mの最高地点があって、ここから一気に芦ノ湖へと駆け下ります。

    国道1号最高地点。駅伝選手はここから駆け下る

    このほど近くの溶岩台地に、かつての箱根七湯の一つ、芦之湯があります。多くの文人や絵師などが湯治のかたわら、東光庵薬師堂に集まって句会や茶会を楽しみました。太田南畝、賀茂真淵、安藤広重も訪れました。また、12,000年~13,000年前の黒曜石の石器が発見され、恐ろしい火山のもとでの人間の営みが想像されます。

    芦之湯の熊野神社に復元された東光庵

    箱根40万年の間の活発な火山活動は、外輪山や中央火口丘、カルデラなどの複雑な地形を形成し、豊かな種類の温泉を作り出しました。4万年前には仙石原湖ができましたが、3,000年前の噴火が芦ノ湖を作り、火砕流が仙石原湖を埋めて湿地帯を作りました。

    芦ノ湖と仙石原
    仙石原湿原。後方の森林は箱根湿生花園、背景は外輪山の金時山

    有史以来マグマ噴火は起きていませんが、大涌谷で噴き上がる水蒸気は、この山が活火山であることを物語っています。2015年には水蒸気噴火が起きました。

    水蒸気を噴き上げる大涌谷

    大涌谷にある「箱根ジオミュージアム」では、箱根がどのように形成されたかをわかりやすく説明しています。

    箱根ジオミュージアム

    箱根には湯本、元箱根、強羅など人気スポットが多く、訪日外国人観光客を含めて多くの人が訪れますが、このリゾート地を自然がどのように作って来たかを知るのも、楽しみのひとつではないでしょうか。

    箱根ジオミュージアム
    神奈川県足柄下郡箱根町仙石原1251
    TEL: 0460-83-8140

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  • 浅間山噴火の歴史を学べるミュージアム

    八ッ場ダムの見学とやんば天明泥流ミュージアム

    軽井沢の矢ヶ崎公園から見る浅間山の勇姿。山頂からの景色はさぞかし素晴らしいでしょうが、この火山の頂上に行くことはできません。2004年の噴火の後は落ち着いているようにも見えますが、浅間山では現在も、1日数十回の火山性地震が観測されています。

    軽井沢の矢ヶ崎公園から見る浅間山の雄姿

    NHK大河ドラマ「べらぼう」に、浅間山の噴火で江戸の人々が恐れおののくシーンがありました。天明3年(1783年)に起きたこの噴火は、浅間山の歴史で最新の大噴火です。溶岩が流れて鬼押出しを作り、土石なだれ、泥流、火山灰は広い範囲に大きな被害をもたらしました。この年には岩木山が噴火したほかアイスランドで火山の大規模噴火があり、北半球で火山灰などの影響から極端な寒冷化が起こりました。これは天明の大飢饉に繋がっただけでなく、フランス革命の遠因にもなったと言われています。

    八ッ場ダムからの吾妻峡の眺望

    天明の浅間山噴火による死者の大半は、山の北側で発生した土石なだれが原因です。噴火の開始から3ヶ月近くが経った頃、溶岩が池に流れ込んで大きな水蒸気爆発が起こりました。江戸だけでなく、京や大阪でも爆発の音が聞こえたと記録されています。そして土石なだれが発生し、麓の鎌原村を呑み込みました。鎌原観音堂に駆け上がった人以外は助かりませんでした。さらに土石なだれが吾妻川に流れ込んで泥流を発生させました。これを天明泥流と呼びます。泥流は利根川、江戸川を下って東京湾にも達しました。無惨な遺体が流れてきたことが記録されていて、両国の回向院など各地に慰霊碑があります。

    回向院の慰霊碑

    群馬県長野原町には、吾妻川に2020年に完成した八ッ場(やんば)ダムに関連する様々な施設が整備されていて、川原湯温泉や吾妻峡とともに観光やグルメを楽しむことができますが、施設の一つに、「やんば天明泥流ミュージアム」があります。ダム湖の底になる前の発掘調査で見つかった縄文から江戸時代までの遺跡がここに展示されているなか、今のビルで20階の高さにも達するような天明泥流に覆い尽くされてしまった村々のそれまでの暮らしを、体感シアターなどでの被害の説明とともに展示解説しています。浅間山大噴火のすさまじい力を知るには欠かせないスポットです。

    やんば天明泥流ミュージアム
    群馬県吾妻郡長野原町大字林1464-3
    TEL: 0279-82-5150
    長野原草津口駅から車で10分、道の駅八ッ場ふるさと館から徒歩10分

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