東海道線根府川駅は、相模湾に面した標高45mの風光明媚な駅です。大正12年9月1日、ここは開通したばかりの熱海線の駅でした。この駅に差しかかった下り列車は、関東大震災となる大正関東地震の激しい揺れに襲われて非常停車しましたが、地震が引き起こした土砂崩れでホームもろとも流されてしまい、最後尾の2両を残して客車6両と機関車が海の中に沈みました。死者は110人とも130人とも言われています。また、付近の白糸川の河口付近の集落は、山からの土砂と海からの津波によって壊滅しました。激しい揺れは各地に大きな土砂崩れを引き起こしました。


この地震は、首都直下型ではなく海溝型です。相模湾を中心とした震源域、マグニチュード7.9と推定されています。高い津波があっという間に伊豆半島、相模湾沿岸、房総半島などを襲いました。
当時日本一の高さを誇ったレンガ造り12階建ての浅草の凌雲閣は、地震の揺れによって8階で折れてその上が大破し、多くの死者を出しました。東京では堅固に見えた西洋建築の多くの建物が倒壊しました。その激しい揺れに耐えたのは、辰野金吾博士が設計して震災の9年前に完成した、赤レンガの東京駅舎でした。辰野博士は、地震の多い日本では欧州の建築方法は通用しないと考え、レンガに鉄筋を埋め込んだのでした。


揺れの激しかった房総半島南部の被害は大きく、館山ではほとんどの家屋が倒壊しました。震災1年後に館山市腰越の延命院に建てられた碑には、「大きな震えに見舞われ、山は崩れ家屋は悉(ことごと)く倒れ、人が死に負傷した。天皇陛下は御下賜金を賜いこれを救った。」と記されています。




関東大震災は10万人を超える死者が出た大災害ですが、死者の9割以上は火災によるものでした。


両国駅(当時は両国橋駅)北方にあった陸軍被覆廠は震災前年に移転し、そこは広い空地になっていました。地震が起こり多くの人々がここに避難しました。そこへ火災旋風が襲い、避難者たちが持ち込んだ家財道具などに着火し、台風の影響による強風に煽られて火の海になってしまいました。被服廠跡地で3万8,000人もの命が奪われました。


神田和泉町・佐久間町の住民は、川の水をバケツリレーで運んで建物に水をかけ、燃えやすい建物を取り壊すなど、協力して必死に消火・防火作業を行ったため、広範な被災地域の中にあって島のように町が残りました。この話は紙芝居になって語られましたが、戦争中にこの紙芝居が教材として使われたため、戦後は忘れられました。
昭和5年には陸軍被覆廠跡に横網町公園が開園し、震災慰霊堂が建てられて遺骨が収容されています。また翌年には関東大震災とその復興を後世に伝えるための復興記念館が完成しました。その後戦災による身元不明の遺骨を合祀する形で慰霊堂は「東京都慰霊堂」と改称され、復興記念館とともに当時の悲劇を現在に伝えています。




東京都復興記念館
東京都墨田区横綱2-3-25
電話: 03-3622-1208
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