2025年1月、政府はユネスコに「飛鳥・藤原の宮都」の推薦書を提出しました。順調に進めば、2026年夏にも新たな世界文化遺産になります。
592年に推古天皇が即位してから710年に元明天皇が平城京に遷都するまでの約120年間の大半、飛鳥とその周辺に都が置かれていました。この時代は、隋唐や朝鮮半島の百済・高句麗・新羅との交流が進み、特に百済から知識・技術や文化・宗教を取り入れつつ、政治や文化が大きく変わって発展を遂げた時代でした。前方後円墳によって政治的権威を示した時代が終わり、天皇の墓は方墳、八角墳に変わりました。


この時代に、自分たちの国を「日本」と呼びはじめ、大王は「天皇」という呼び方に変わり、律令制が整備されて天皇を中心とした中央集権的な国家に変わりました。


東漢氏(やまとのあやうじ)の氏寺
推古天皇は豊浦宮(とゆらのみや)で即位し、蘇我馬子や聖徳太子らとともに、政権基盤作りを進めました。冠位十二階、憲法十七条を定め、遣隋使を派遣して対等な関係を表わす文書によって隋の煬帝を怒らせました。


6世紀半ばに百済から公伝された仏教は権力者に受け入れられ、蘇我馬子は、渡来系氏族の協力を得て法興寺(地名から飛鳥寺)を建立しました。


蘇我氏は権力を強め、蘇我蝦夷・入鹿の時代には、舒明天皇やその皇后で後を継いだ皇極天皇の力は限られたものでした。


しかし645年に皇極天皇の子の中大兄皇子が中臣鎌足らと協力して蘇我入鹿を切り殺し、蘇我蝦夷も自殺に追い込まれました。この乙巳の変によって大化改新が始まりました。

皇極天皇の後を継いだ弟の孝徳天皇は難波に遷都しますが、皇極・中大兄の母子が飛鳥に戻ってしまい、孝徳天皇は失意のうちに病死しました。そこで、皇極天皇があらためて斉明天皇として即位しました。彼女は、既に蘇我氏の権力がなくなった飛鳥で、宮殿や大規模な祭祀場、饗宴場など建設工事を積極的に進めました。一方で、蝦夷対策として阿部比羅夫を派遣して日本海側を北上させ、朝貢してきた蝦夷を饗応しました。





661年に百済が滅亡すると、百済の貴族層が多く亡命してきました。伝統と融合した文化が花開き、詠まれた歌は奈良時代に万葉集として編纂されました。一方、百済再興を目指して協力した白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に敗れました。中大兄皇子が斉明天皇の後を継いで天智天皇として即位し、近江大津宮に遷都して各地に土塁を築くなど防御を固めました。

天智天皇没後、その子大友皇子が即位しようとしますが、吉野にいた天智天皇の弟の大海人皇子が672年に近江に向かって戦いを起こし、この壬申の乱に勝利した大海人皇子が即位して天武天皇となりました。そして再び飛鳥を拠点にして国づくりに邁進します。
これを引き継いだ皇后の持統天皇は、律令制を整備して飛鳥浄御原令を発し、また飛鳥の北に本格的宮殿を備えた藤原京を作りました。


これまで便宜的に「天皇」と書いてきましたが、大王がこの時代に「天皇」に変わり、また「日本」が使われるようになりました。推古天皇即位以来の飛鳥での国づくりが、天武・持統天皇によって日本国となって結実し、701年の大宝律令によって律令制が完成しました。

日本のはじまりの地・飛鳥を、ゆっくりと巡ってみてはいかがでしょうか。
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