清和源氏の嫡流、前九年の役や後三年の役で活躍した源義家(八幡太郎義家)の子、源義国が、足利氏と新田氏の祖です。所領の地名をとって、義国の長男義重が新田、二男の義康が足利を名乗りました。
足利義康が領有した地が、現在の足利市です。この地には、源義家が奥州合戦の戦勝祈願のために勧請した、下野国一社八幡宮があります。八幡宮は、応神天皇を祀る神社で、源氏の氏神です。


足利義康の子義兼が居館を構えた場所が、足利氏の氏寺になる鑁阿寺(ばんなじ)です。義兼は、居館の中に持仏堂を建て、大日如来を祀りました。




源頼朝が伊豆で挙兵した時、足利義兼はいち早く頼朝に従軍し、その後義兼は、北条政子の妹時子を妻に迎えて頼朝との関係を深めました。また義兼は身内の菩提のために樺崎寺を建て、その後3代目義氏が八幡神を勧請して義兼を合祀し、樺崎八幡宮となりました。






一方で、新田義重は頼朝挙兵の際に様子見をして頼朝の怒りを買い、その後許されたものの冷遇されました。もっとも、新田義重が平宗盛のもとに仕えさせていた孫の里見義成は、平家の館を脱出して頼朝のもとに駆けつけ、頼朝の信頼を得ました。
時代が下って、室町幕府の初代将軍足利尊氏は、応安元年(1368年)に足利の地に善徳寺を創建しました。


室町幕府は東の拠点として鎌倉府を作り、足利氏が勤める鎌倉公方と、それを補佐する関東管領を置きました。足利尊氏の子、基氏が初代の鎌倉公方となり、尊氏の母の実家上杉氏が代々の関東管領を勤めました。
しかし、その後鎌倉公方は将軍家と対立するようになり、将軍家への反抗を関東管領上杉憲実に諌められた足利持氏は、永享10年(1438年)に挙兵して憲実を攻め、将軍の支援を受けた憲実軍に敗れて自害します。主君を死に追いやった憲実は出家しました。


足利持氏と上杉憲実の子の代になって、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏が関東の勢力を二分して争う享徳の乱が起きました。足利成氏が享徳4年(1455年)に鎌倉を撤退して古河に移り、それからは古河公方と呼ばれます。




その後、平氏の子孫である伊勢氏が北条を名乗って関東で勢力を拡大し、足利家に干渉しました。北条氏康は縁戚となった足利義氏を強引に古河公方にさせ、自らを関東管領としました。古河公方は、事実上この義氏が最後となります。

北条氏康に関東を追われて越後に逃れた上杉憲政から関東管領職を譲られた上杉謙信は、古河公方として足利藤氏を戴き、度々関東に出陣して、源氏の子孫で代々足利氏を支えた安房の里見義尭・義弘親子などとともに北条氏と敵対しました。しかしその後、上杉謙信と北条氏政が武田信玄を警戒して越相同盟を結び、戦国の勢力争いのなか、関東で足利氏が影響力を示すことはなくなりました。
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