美桜の都に世界が集う
温暖化の影響で桜の満開予想が毎年大きく変わってしまう昨今、桜を観るための旅行計画は半ばギャンブル、半年前から4月の5日前後と予想してこの日に賭けてみました
先週各地で雨風が強かったのもあって、満開のピークとは行きませんでしたが、それでも奈良・飛鳥・吉野の桜は頑張ってくれていて素敵な姿を見せてくれました
日本特有の桜の花見は平安時代貴族の間で催されるようになり、その習慣が武士の間に広まり、有名な豊臣秀吉の吉野や醍醐の花見へとつながります
それと並行して特権階級のような豪華なうたげでは無く、春が訪れた喜びと田植えの準備の前祝いのように、農村での花見も各地で行われていたようです
江戸時代になると上野の桜に代表されるお花見スポットが整備され、武士も庶民も楽しめるような観光コンテンツになって行きます
近年この桜の季節を楽しむのは日本人だけではありません、日本を訪れるインバウンドの約50%が美しい桜を見て、写真におさめて帰りたいとのデータもあるほど、桜は今や日本最大の観光資源となっています
桜観光の良いところは古来からの日本の季節習慣になっているので、比較的全国各地にお花見の場所があり、観光客が分散されながらインバウンド需要を取り込んで、リピーターになってもらえるチャンスがあります
今回はお花見の王道吉野山へも行きますが、京都よりは混雑が少なくて古都の風情も楽しめる、奈良の都に桜を訪ねる事にしました
東京から新幹線で京都経由、近鉄特急で約30分(山手線半周ぐらい意外と近い)奈良へ到着しました


既に古都・奈良モードになって来て期待が高まりますが、先ずは今年の大河ドラマ『豊臣兄弟』に沸く大和郡山城へ、桜の名所だと書かれていて10時前後なら大丈夫かもと考えて出かけましたが甘かったです
交通規制がかかっていてどの駐車場も満車、天守閣跡地の石垣からの桜は絶景と言われる景色を諦めました

次に天下人秀吉の弟で右腕として活躍した豊臣秀長の墓所へ、ここはほとんど人が来ない住宅街の中にひっそりと建っていました、秀吉が関白になると大納言としての位を授けられ大和大納言と呼ばれた秀長
大和・紀伊・和泉の110万国の大大名として地域の発展にも心を配り、関係性の難しい各戦国大名とも信頼関係を築く人格者
晩年失政が多く世情を混乱させた兄・秀吉と違って、いろんな資料を読む限り為政者として欠点のない人、秀長が長命なら徳川の世は無かったとの意見も、秀吉より早く亡くなった事が豊臣氏滅亡への分岐点だったとも言えます
徳川の時代になると元々兄の出世を陰から支えていた秀長は忘れ去られましたが、この史跡の説明には素晴らしい功績が記されていて、地元の人々にとって名君として記憶に残っているようです


斑鳩の里は元祖ダイバーシティ
次に訪れたのは修学旅行以来の斑鳩の里・法隆寺へ、主人は防災の視点から地震大国日本で、約1300年以上この地に立ち続ける五重塔の建築の妙に関心があり、その内容の記事はこちらです
また広い境内を散策する前後のエネルギーチャージに、美味しい法隆寺ランチと珈琲、奈良の老舗旅館の和会席を頂きました、その記事はこちら
法隆寺は用明天皇が自身の病気平癒を祈るために、寺と仏像を造るよう請願しながら完成を見ることなく亡くなった後、その妹で日本初の女帝・推古天皇と、天皇の甥で用明天皇の皇子であった聖徳太子が607年に建立したお寺
聖徳太子は皇太子として推古天皇の治世を支え、当時の先進国中国の隋に遣隋使を派遣、先進技術とそれを活かす社会整備に人生を費やして、現在も連綿と続く天皇家の基礎を作った人です
太子は幼少期から聡明であったエピソードも多く、当時異国の宗教とみなされ受け入れる事に反対意見が多かった仏教を尊び、朝鮮の高句麗から渡来した僧の恵慈を仏教の師と仰ぎました
仏法だけでなく大陸の情勢に詳しい恵慈は外交顧問のような役割も果たしていたといわれ、その考えにインスパイアされた太子は、大和朝廷が日本の一地域の政権として存在するだけではなく、当時の世界情勢の中でどのように国を創って行けば良いのか、グローバルな視点を持った国際人として飛躍したようです
聖徳太子は当時としてはかなり長命だった推古天皇在位30年に、帝位に就くことなくこの世を去ります、推古天皇亡き後太子直系の山背大兄王は皇位継承争いに巻き込まれ、蘇我入鹿に追い詰められ自害します
そして2年後皇位継承問題で発言力を強め専横を極めた蘇我氏も、乙巳の変で滅亡へと追いやられていきます、約500年後の平家のように「奢れるものも久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」ですね
でも夢では無いのがここ法隆寺、多様性を認め大陸の最先端の技術を取り入れながら建立され、今も当時の姿を保つ世界最古と言われる木造建築群です
境内に入ると歳月に洗われ色彩が無く古色蒼然としていますが、権力の流転を観続けながら毅然とした姿を現してくれる五重塔、この姿と桜を一緒に撮りたくてお堂の枝垂れ桜の前で撮影していると、同じようにスマホを構える人が続出


大宝蔵院では歴史の教科書で目にすることが多い『聖徳太子二王子像』の絵図や、スレンダーなお姿が美しい『百済観音像』を拝観し夢殿へと向かいます


夢殿の隣が太子の母君ゆかりの中宮寺、お母様をモデルに創られたと言われる、飛鳥時代の最高傑作国宝・『菩薩半跏像』、神秘的な微笑みを浮かべるお姿は、美術界でモナリザのアルカイックスマイルに匹敵すると言われるそうです


旅行3日目東大寺と奈良公園の近くに立ち寄った時は、団体客でごった返していましたが、法隆寺は少し離れているのでそこまで人は多くなく、ゆったりと拝観できるのがとてもオススメのポイントです
東大寺の対極・女帝が愛した西大寺へ
聖武天皇が建立した東大寺、その西に平城京を守るよう建てられたのがこの西大寺、今はほとんどの観光客が東大寺に集中し、こちらのお寺を訪れる人はまばらです
西大寺は聖武天皇の皇女で二度の帝位に就いた称徳天皇が建立したお寺、恵美押勝の乱の後鎮護国家を願って、765年から15年の歳月をかけて造営され、当時は約48ヘクタール(東京ドームの10倍)の大伽藍で、東西に五重塔を配置する広大なものでした
二度目の位に就く前大病を患った女帝に近侍してその病を癒したのが、その時の東大寺別当(お寺の最高位)の立場にあった良弁の推薦を受け、その後異例の出世を遂げた僧侶・道鏡、女帝の寵愛を盾に最後は皇位を譲るようそそのかし、日本の歴史に残る悪人の一人とされています
現代の研究では道鏡にそこまでの野心や権力はなく、その後の皇位継承者が自分たちの立場を正当化するために、過度に悪評を書き立てた可能性が高いとも言われています
近年道鏡の出身地・八尾の市民団体が今風に言えば、政敵からのネガティブキャンペーンに晒され、ファクトチェックされないまま1200年以上も風評被害を受け続ける道鏡に同情し、名誉回復を図ろうと地道な活動を続けています
2020年その活動の一つとしてこの西大寺に道鏡の座像が奉納されました、実際の座像は悪人とはかけ離れた目元涼やかなイケメン、どちらにせよ絶えざる権力闘争に悩まされ常に緊張を強いられた女帝にとって、道鏡と西大寺の建立が心の支えになっていたのは事実のようです


この日は斑鳩から奈良へ戻り興福寺至近の宿へ、その記事はこちらです
ホテル近くの藤原氏の庇護で大いに栄えた興福寺の周りも桜が満開でした



日本仏教発祥の古刹・元興寺
旅行最終日に立ち寄ったのは日本仏教界の起点ともいえる元興寺、今まで仏教伝来は552年と言われていましたが、ここ『元興寺縁起』には538年朝鮮半島の百済王が日本の朝廷に仏像や経典を贈ったと記されています
仏教は単に宗教の枠にとどまらず、文字や建築・彫刻・絵画といった当時の最先端の文化と技術、そして国家統治の思想を伴って伝わって来ました、この仏教に対して飛鳥時代の権力者達はそれぞれの思惑で対応を決めます
最も積極的に仏教を取り入れたのは豪族の中でも発言力のあった蘇我氏一族、元興寺は排仏派の豪族を滅ぼした蘇我馬子が588年、日本で初めて本格伽藍を備えた仏教寺院として建立した飛鳥寺が起源です
当時の飛鳥寺は仏教の本拠地であり、蘇我氏を通じて輸入される大陸文化の発信地、飛鳥時代の政治外交の中心でした
奈良の平城京に都を移す際はその歴史的重要性ゆえに、飛鳥寺(元興寺)も共に奈良の地へと移されたという経緯があり、天平元年(749年)東大寺に次ぐ格式を与えられています
その後お寺の広大な敷地は隆盛と衰退を繰り返しながら、お寺的な町名を残し奈良町の一部へと変容していきました


平安京よりも歴史が深い奈良の平城京、京都とはまた違う魅力がある日本の古都、京都も大好きですが、奈良もまたこれから季節を変えて度々訪れたいと思いました
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