出雲大社と古代出雲の遺跡 ― 大国主の国譲りとは何か

古事記には多くの神様が登場しますが、出雲の神様の主人公は、何と言ってもオオクニヌシノミコト(大国主)です。特に大国主の国譲りの神話について、これまでいろいろな解釈がなされてきました。
古事記には、大国主は葦原中国を統治していたが、天つ神に国を譲ったと書かれています。これは、出雲の王がヤマト王権に国を譲ったと解釈されます。もちろん神話の世界であり、大国主という人物が実在し、出雲をヤマトに譲ったということは確認できません。しかし、全くの作り話ということでなく、歴史的な背景をもとにこの記述があると考えられます。これを紐解くためには、実際に確認できる出雲の社会、そこから推測できる政治勢力と、後世に古事記、日本書紀が伝えた神話との関係を考える必要があります。

オオクニヌシノミコト(大国主)

弥生時代後期(おおむね1~3世紀)、現在の島根県東部を中心とする出雲地域には、有力な政治勢力が存在したと考えられています。
特に次の遺跡の発見は衝撃的でした。
荒神谷(こうじんだに)遺跡 — 358本もの銅剣が一か所から出土
加茂岩倉(かもいわくら)遺跡 — 39個の銅鐸が出土
西谷(にしだに)墳墓群 — 大型の「四隅突出型墳丘墓」が集中
その後の古墳時代にも、首長墓が形成されています。

荒神谷遺跡
1984年に358本の銅剣が出土した
荒神谷博物館
荒神谷で出土した銅剣は、島根県立古代出雲歴史博物館に展示されている

一方で、出雲王国という集権国家があったことを示す文字史料はありません。

加茂岩倉遺跡
1996年に39個の銅鐸が出土した
加茂岩倉遺跡ガイダンス
加茂岩倉で出土した銅鐸は、島根県立古代出雲歴史博物館に展示されている

大国主は実在した王なのか?
古事記で大国主は、天つ神に国を譲ります。これは何を反映しているのでしょうか?
古事記が成立したのは8世紀初頭です。ところが、神話の舞台になっているのは、それより何世紀も前の時代です。その間に、ヤマト王権が勢力を拡大し、各地の有力勢力を服属させていく過程がありました。
そこでは、「もともと地上世界を治めていた大国主が、天照大神の子孫に国を譲った」という物語が都合のよい政治神話になります。ヤマト王権による支配が単なる武力による征服ではなく、正当な神意による継承であるという意味を読み取ることができます。
それでは、出雲はヤマト王権に征服されたのでしょうか?
発掘調査が示すとおり、弥生時代後期のものとされる西谷墳墓群では、この地域の首長の墓と考えられる大型の四隅突出型墳丘墓が多数発見されています。ところが古墳時代になると、ヤマト王権と共通する前方後円墳などが各地に広がっていきます。これは確かに、出雲の有力者たちが広域的なヤマト王権の政治秩序に組み込まれていったことを示唆します。

西谷墳墓群のうちの2号墓
出雲弥生の森博物館

ただし、ある年にヤマト軍が出雲を攻撃し、出雲王が降伏したという事件を考古学的に確認できるわけではありません。武力による征服だけでなく、婚姻・同盟・服属・人的交流・祭祀の共有など、長期的な政治統合だった可能性もあります。

日御碕(ひのみさき)神社の神の宮。素盞嗚尊(スサノオノミコト)を祀る
日御碕神社の日沉宮(ひしずみのみや)。天照大御神(アマテラスオオミカミ)を祀る

国を譲った後の出雲 ― 出雲大社が祭祀の中心に
大国主は国を譲るに際し、自分を祀る大規模な神殿を造ることを要求しました。これは、政治的な支配権はヤマト王権側にあるが、出雲の宗教的権威は特別に尊重するという関係を示していると解釈できます。
実際に、出雲大社に巨大な神殿が造られました。現在の神殿よりはるかに大きい、高さ48mの建物だったと推定されています。2000年に出雲大社境内で発見された石の列と大きな柱の一部は、それまでの神殿の跡に13世紀に再建された巨大な神殿の跡と考えられています。このように出雲大社は極めて重要な神社として残りました。
政治的にはヤマト王権の国家秩序に入る、しかし宗教的には出雲の伝統を維持するという結果から、国譲り神話は、出雲の古い権威を消滅させず、新しい国家秩序の中に位置づけた話とも読めます。

出雲大社の拝殿
かつての巨大な神殿の模型。高さ48mと推定されている

日本書紀には、出雲国造という、出雲の祭祀を担う家系が登場します。出雲国造は、古代出雲の有力氏族で、大国主を祭神とする杵築大社(現在の出雲大社)の祭祀に関わっていたとされていますが、その祖先神は天穂日命(あめのほひのみこと)ともされています。神話では天穂日命は天照大神側の神なのに、出雲では大国主を祀る役割を担っています。それは、古い段階の出雲の在地社会で有力首長層が独自の神々の祭祀を行った時期から、王権統合後には、ヤマト王権のもとで出雲国造が出雲大社で大国主を祭るという構造に変わったことを表しているのでしょう。

2013年に式年遷宮が行われた本殿
長さ13.6mの注連縄(しめなわ)のある神楽殿

大国主は単一の神なのか?
大国主という神は、単なる軍事王ではなく、国作り、農耕、縁結び、医療、海上交通、他地域との婚姻、神々との交流など、非常に多様な性格を持っています。
古事記の大国主には、大国主神、大穴牟遅神(おおなむぢ)、葦原色許男神、八千矛神、宇都志国玉神という複数の名前があります。また大物主とも同一視されます。
さらに大国主は、単純な出雲の統治者というだけでなく、親族や協力者の神々とともに、因幡、伯耆、越、吉備、信濃など、非常に広い地域に関わる伝承があります。これは出雲が日本海側などの広域ネットワークの中にあったことを物語っています。大国主は、特定の一人の歴史的人物というより、広域的な神話・祭祀ネットワークを象徴する神だった可能性があります。異なる地域・祭祀・神話に存在していた複数の神格を、後世に「大国主」という神格へまとめたと考えることが可能です。
国譲りの意味は、単純に出雲王国からヤマト王国という話ではなく、各地に存在していた在地の神々・首長・祭祀伝統からヤマト王権を中心とする新しい政治秩序への移行を、一つの神話にまとめた、と見ることもできます。

別の視点からの説
国譲り神話の背景に、出雲東部の意宇を本拠とする出雲臣氏が、ヤマト王権などを後ろ盾にして、出雲西部の杵築を中心とする地域へ進出し、大国主神の祭祀権を掌握した歴史が反映されている、という説があります。この説では、国譲りは、出雲内部の勢力再編を利用してヤマト王権による統合が行われるという政治過程になります。
そう考えると、国を譲る大国主は、もともと出雲西部を中心とする古い祭祀・政治勢力によって祀られた神だったことになります。そして後に、出雲の複数の神話と在地祭祀、日本海側の広域的な伝承、ヤマト王権の国家神話などが融合して、古事記などに登場する大国主神が形成された、と考えるわけです。
もっとも、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡などの弥生時代の出雲と、8世紀の出雲大社・出雲国造の間には、数百年の時間があります。したがって、荒神谷や加茂岩倉で青銅器を使った人々が大国主を信仰し、後の出雲国造へ一直線につながったということはできません。むしろ、「古い出雲の伝統がどこまで後世に継承されたのか?」という問題が残ります。

2026年10月1日にリニューアルオープンした島根県立古代出雲歴史博物館

三輪山の大物主との関係
大和の三輪山に祀られている神は、大物主です。これは大国主とどのように関係しているのでしょうか。
日本書紀では、下記のとおり、大物主は大国主自身の魂であるとして描かれています。
大国主が「この国を治められたのは私一人のおかげだ。他に一緒に治める者がいるだろうか」と口にすると、海から神光が差し込み、現れた神が「もし私が素晴らしい国造りをしなかったら、お前一人の力でこの国を治められただろうか」とたしなめます。大国主が「あなたは誰ですか?」と尋ねると、その神は「私はお前自身の『幸魂・奇魂(幸福と奇跡をもたらす魂)』である」と答えます。大国主は「なるほど、私の幸魂・奇魂なのだから、あなたは私自身なのだ」と納得し、その魂(大物主)を大和の三輪山に祀りました。
また、出雲国造が朝廷で奏上した祝詞「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)」では、大穴持命(大国主)が、自分の「和魂」を大物主神として大和の三輪山に鎮座させたり、事代主神などを皇孫の守護神として配置したりすると語られます。
これらを読むと、出雲の神がヤマトに征服されたどころか、出雲の神をヤマト王権の守護神として配置するというようにも見えます。
しかし、大国主と大物主は、古事記と日本書紀でも扱いが異なり、研究上も、同じ神の別名なのか、もともと別の神が後から習合したのかが議論されています。
古事記には次のように描かれます。
大国主が「これから一人でどうやって国を造ればいいのか」と案じていると、海を照らして浮かび上がる神が現れます。その神は「私をよく祀るなら、国造りを成功させてあげよう」と言います。大国主が「どのように祀ればよいのですか?」と尋ねると、神は「大和の青垣の東の山(三輪山)の上に祀りなさい」と答えます。著者は「これ(海から来た神)は、御諸山(三輪山)の上に鎮座する神(大物主神)である」と解説を付け加えています。ここで大物主は、大国主にとって自分の国造りを助けてくれた強力な協力者(他者)のようにも読めます。
日本書紀では、先ほどの話のほか、大物主について複数の異伝が記録されています。8世紀の段階ですでに、大物主は大国主と同じ神なのかという問題が存在していた可能性があります。
大物主の本拠地は、出雲ではなく奈良盆地東部の三輪山で、三輪山そのものをご神体としているのが大神神社です。三輪山は奈良盆地の東側にそびえ、古代ヤマトの政治・祭祀空間の中心に近い場所です。そこは、ヤマト王権成立期の重要な祭祀拠点だった可能性が高いのですが、なぜそこに大物主がいるのか?
一つの可能性は、三輪山にはもともと非常に強力な在地神・山の神の祭祀が存在していた、そこへヤマト王権の形成過程で、大物主という神格が組み込まれたというものです。つまり、出雲の大国主が奈良へやって来たというより、もともと三輪に存在した強力な神霊と、出雲系の大国主神話などが後世に習合したという考え方です。

三輪山の大神神社

仮に古代ヤマト王権が、「俺たちの神だけを信じろ」と各地の神を排除したのなら、出雲の神が三輪山に祀られることはなかなか説明できません。実際には、出雲の宗教的権威をヤマトの国家秩序に取り込むことにより、各地域の強力な神を神話的に接続したとみることができます。
出雲の大国主神話とヤマトの三輪山祭祀が、古代国家形成の過程で結びつけられたと見ることができそうです。しかし、三輪山の祭祀を担った氏族が大神氏(おおみわうじ)、一方出雲では出雲臣・出雲国造が大国主の祭祀を担う、この二つの祭祀系統が存在することになりました。

国譲りには、出雲の神をヤマトの国家秩序の中に配置したという構造が見えます。その出雲の神とは、出雲地域に存在した複数の集団・首長・祭祀集団が長い時間をかけて融合した神話的キャラクターとしての大国主だったのかもしれません。
やはり「大国主はもともと出雲で祀られてきた神様か?」という疑問は残ったままです。

とっておきのグルメと観光 記事一覧

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA