ワンダーな未知との出会いの旅ガイド

  • 奈良は花とグルメの都

    美しい桜を楽しんだら同時に美食も楽しみたい、そんな希望を叶えてくれるのが、京都・奈良の素晴らしいところ
    知り合いが若い頃長くヨーロッパで暮らしていて、その時の友人達から桜の季節になると京都案内を頼まれるそうですが、あまりの混雑で風情がかき消されてしまうので、奈良を提案すると旅行が終わる頃にはすっかり奈良派になるそうです(近鉄CMのサクラではありません)
    日本食の王道は京懐石だと思いますが、今回の旅でなかなか奈良の美食も捨てたものではないと再認識、奈良に都が置かれたのもこの地域の土地が豊かで、その時代の食糧生産性が高かった事が理由の一つだったとか

    法隆寺の参拝前ランチに立ち寄った参道近くのカフェ「グリーンサンフード」
    精進料理に近いワンプレートランチ、普通食べづらい玄米が美味しい、食材と炊き方が良いのでしょう
    カフェなのでコーヒーも手抜きなし

    奈良一日目のホテル・老舗旅館をリノベーションした『飛鳥荘』はお料理旅館としても有名、興福寺・奈良公園・奈良町は歩いて数分、地の利の良さは抜群です

    見た目はホテルですが、創業1938年の料亭旅館
    リノベーションで和洋室も多い、お部屋は萩の十五
    興福寺の五重塔が見えるはずですが改修中で少し残念
    猿沢の池も眼下に望めます
    ホテルを出た道路を普通に歩いています、声をかけると振り返ってくれました

    お食事は個室で頂けます、街に出かける必要が無いのがお料理旅館のメリット、主人は早速オススメの地酒3種をオーダー

    どのお酒も美味しかったとの事

    先付けはほたるいか・新若芽・行者大蒜・辛子ジュレ・花弁大根、爽やかな酸味で始まりました

    八寸は右上から、桜鱒桜葉寿司・酢取りミョウガ・一寸豆(そら豆が一寸・3cm大のもの)・蒸鮑とふきのとう味噌・蕗と新玉葱の浸しと桜えび、すべてシンプルで優しい味です

    煮物椀は左から油目(アイナメ)葛たたき・たらの芽・花柚子・玉子葛豆腐の清汁仕立て、小骨が多い白身魚が丁寧に下ごしらえされて、ほろほろの食感と葛の薄い衣に出汁の味が閉じ込められ、花柚子の香りと苦みが良いスパイスに

    お造りは天然鯛と初鰹、スタンダードなお造りですが、濃いめの土佐醤油が一味違う仕事をしてくれて、それぞれ皮だけ炙って添えてくれているので、焼きの香ばしさも味わえるという、料理長さんのアイデアが光ります

    焼肴は福子(セイゴ→フッコ→スズキとなる出世魚)ヨモギ味噌焼き・新馬鈴薯とびこ和え、脂ののった白身にヨモギの風味が味噌と調和して春を頂く感じです、添えてあるのは瑞々しい新じゃがをソーメンのように細く切ってとびこと和えたもの、どちらも初めての斬新な味覚

    油物はうすい豆のかき揚げ・稚鮎の薄衣、グリーンピースを改良した春から夏にかけてが旬なうすい豆はホクホクの食感、このかき揚げは山椒塩で、稚鮎は一般的な蓼ではなく木の芽酢で頂きます、全て春らしい素材がより美味しくなるように、香辛料や調味料のチョイスが素晴らしい

    名代は黒毛和牛と山菜鍋、多分この近くの里山で採れた、竹の子や芹・うるい・蕨等の新鮮な山菜を出汁の中に入れて、山菜の苦味や香りが味付けにもプラスされた鍋に、和牛を潜らせます
    意外な組み合わせは秀逸で、こんな食べ方があったのだと感心しました

    お食事は奈良県産ヒノヒカリ、香の物は名前から分かる通り奈良県特産の奈良漬け、留椀も美味しいです

    水物は桜香大福とせとか、大福というメニューですが古都華(ことか)という奈良県の糖度が高い高級イチゴを、薄い求肥のような皮で巻いた和菓子風デザート、せとかは様々なオレンジを掛け合わせ、それぞれの良い特徴を受け継いだ品種、その濃厚なコクと甘みは「柑橘の大トロ」と呼ばれるフルーツ、確かに手を加える必要が無い美味しさでした

    お料理もお部屋も大変オススメの『飛鳥荘』ですが、興福寺の五重塔の修理は2033年まで続くそうで、やはりホームページの景色を見るとお部屋から興福寺を眺められる眼福は捨てがたい魅力が有ります
    まだ約7年かかりますが、タイミングが合えば奈良も『飛鳥荘』も是非再訪したいと思いました

    もう一つ街歩きのランチにオススメのレストランは、『るるぶ奈良』に載っていた奈良町元興寺近くの『旬菜ひより』、大和野菜の美味しさに魅せられたオーナーが開業したお店で、自家農園で丁寧に育てられた素材を一品ずつ提供してくれます

    大和野菜中心ですが、メインに魚やお肉をチョイス出来るメニューも多い
    店内はシンプル
    出汁の効いた生姜汁、シャキシャキのレタスと
    吉野葛等でとろみをつけたホワイトソースのじゃがいも和風グラタン
    左から胡麻豆腐・大和野菜のお浸し・人参とセロリのきんぴら・春菊と田舎コンニャクの白和え・ほうれん草の胡麻和え、スタンダードな和食ですが、味付け鮮度の良さで満足度が高い
    上が南瓜・新玉ネギ・ぜんまいの天ぷら、下がさつまいも団子のキビあんかけ、甘みの強いさつまいもに濃いめの醤油味が良く合います
    岩魚の塩焼き
    古代米・なすの味噌󠄀炒め・奈良漬
    自家製のわらび餅

    旅行最終日東大寺南大門前近く、明治2年創業奈良漬の老舗『森奈良漬店』に立ち寄りました、それぞれの素材の特徴に合わせて、時間や漬け方を変えているという徹底した品質管理、東京に帰ってからもしばらく奈良の味を楽しめました、奈良の大和グルメ本当にご馳走様でした

    とっておきのグルメと観光 記事一覧

  • 古都奈良の桜めぐり

    美桜の都に世界が集う

    温暖化の影響で桜の満開予想が毎年大きく変わってしまう昨今、桜を観るための旅行計画は半ばギャンブル、半年前から4月の5日前後と予想してこの日に賭けてみました
    先週各地で雨風が強かったのもあって、満開のピークとは行きませんでしたが、それでも奈良・飛鳥・吉野の桜は頑張ってくれていて素敵な姿を見せてくれました
    日本特有の桜の花見は平安時代貴族の間で催されるようになり、その習慣が武士の間に広まり、有名な豊臣秀吉の吉野や醍醐の花見へとつながります
    それと並行して特権階級のような豪華なうたげでは無く、春が訪れた喜びと田植えの準備の前祝いのように、農村での花見も各地で行われていたようです
    江戸時代になると上野の桜に代表されるお花見スポットが整備され、武士も庶民も楽しめるような観光コンテンツになって行きます
    近年この桜の季節を楽しむのは日本人だけではありません、日本を訪れるインバウンドの約50%が美しい桜を見て、写真におさめて帰りたいとのデータもあるほど、桜は今や日本最大の観光資源となっています
    桜観光の良いところは古来からの日本の季節習慣になっているので、比較的全国各地にお花見の場所があり、観光客が分散されながらインバウンド需要を取り込んで、リピーターになってもらえるチャンスがあります
    今回はお花見の王道吉野山へも行きますが、京都よりは混雑が少なくて古都の風情も楽しめる、奈良の都に桜を訪ねる事にしました
    東京から新幹線で京都経由、近鉄特急で約30分(山手線半周ぐらい意外と近い)奈良へ到着しました

    京都で東寺の五重塔がお見送り
    奈良の朱雀門がお出迎え

    既に古都・奈良モードになって来て期待が高まりますが、先ずは今年の大河ドラマ『豊臣兄弟』に沸く大和郡山城へ、桜の名所だと書かれていて10時前後なら大丈夫かもと考えて出かけましたが甘かったです
    交通規制がかかっていてどの駐車場も満車、天守閣跡地の石垣からの桜は絶景と言われる景色を諦めました

    お城の周りの桜、一瞬車を降りて撮りました

    次に天下人秀吉の弟で右腕として活躍した豊臣秀長の墓所へ、ここはほとんど人が来ない住宅街の中にひっそりと建っていました、秀吉が関白になると大納言としての位を授けられ大和大納言と呼ばれた秀長
    大和・紀伊・和泉の110万国の大大名として地域の発展にも心を配り、関係性の難しい各戦国大名とも信頼関係を築く人格者
    晩年失政が多く世情を混乱させた兄・秀吉と違って、いろんな資料を読む限り為政者として欠点のない人、秀長が長命なら徳川の世は無かったとの意見も、秀吉より早く亡くなった事が豊臣氏滅亡への分岐点だったとも言えます
    徳川の時代になると元々兄の出世を陰から支えていた秀長は忘れ去られましたが、この史跡の説明には素晴らしい功績が記されていて、地元の人々にとって名君として記憶に残っているようです

    お供えの花は満開の桜
    質素ですがしっかりこの地域に守られている大納言塚

    斑鳩の里は元祖ダイバーシティ

    次に訪れたのは修学旅行以来の斑鳩の里・法隆寺へ、主人は防災の視点から地震大国日本で、約1300年以上この地に立ち続ける五重塔の建築の妙に関心があり、その内容の記事はこちらです
    また広い境内を散策する前後のエネルギーチャージに、美味しい法隆寺ランチと珈琲、奈良の老舗旅館の和会席を頂きました、その記事はこちら
    法隆寺は用明天皇が自身の病気平癒を祈るために、寺と仏像を造るよう請願しながら完成を見ることなく亡くなった後、その妹で日本初の女帝・推古天皇と、天皇の甥で用明天皇の皇子であった聖徳太子が607年に建立したお寺
    聖徳太子は皇太子として推古天皇の治世を支え、当時の先進国中国の隋に遣隋使を派遣、先進技術とそれを活かす社会整備に人生を費やして、現在も連綿と続く天皇家の基礎を作った人です
    太子は幼少期から聡明であったエピソードも多く、当時異国の宗教とみなされ受け入れる事に反対意見が多かった仏教を尊び、朝鮮の高句麗から渡来した僧の恵慈を仏教の師と仰ぎました
    仏法だけでなく大陸の情勢に詳しい恵慈は外交顧問のような役割も果たしていたといわれ、その考えにインスパイアされた太子は、大和朝廷が日本の一地域の政権として存在するだけではなく、当時の世界情勢の中でどのように国を創って行けば良いのか、グローバルな視点を持った国際人として飛躍したようです
    聖徳太子は当時としてはかなり長命だった推古天皇在位30年に、帝位に就くことなくこの世を去ります、推古天皇亡き後太子直系の山背大兄王は皇位継承争いに巻き込まれ、蘇我入鹿に追い詰められ自害します
    そして2年後皇位継承問題で発言力を強め専横を極めた蘇我氏も、乙巳の変で滅亡へと追いやられていきます、約500年後の平家のように「奢れるものも久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」ですね
    でも夢では無いのがここ法隆寺、多様性を認め大陸の最先端の技術を取り入れながら建立され、今も当時の姿を保つ世界最古と言われる木造建築群です
    境内に入ると歳月に洗われ色彩が無く古色蒼然としていますが、権力の流転を観続けながら毅然とした姿を現してくれる五重塔、この姿と桜を一緒に撮りたくてお堂の枝垂れ桜の前で撮影していると、同じようにスマホを構える人が続出

    言葉通り五重塔に花を添える

    大宝蔵院では歴史の教科書で目にすることが多い『聖徳太子二王子像』の絵図や、スレンダーなお姿が美しい『百済観音像』を拝観し夢殿へと向かいます

    夢殿へと続く桜回廊
    夢殿には聖徳太子等身大の観音像が安置されています

    夢殿の隣が太子の母君ゆかりの中宮寺、お母様をモデルに創られたと言われる、飛鳥時代の最高傑作国宝・『菩薩半跏像』、神秘的な微笑みを浮かべるお姿は、美術界でモナリザのアルカイックスマイルに匹敵すると言われるそうです

    美しい夢殿の桜を母君に見せるように、壁を越えて枝が差し伸べられています
    山吹の黄色が鮮やかな中宮寺

    旅行3日目東大寺と奈良公園の近くに立ち寄った時は、団体客でごった返していましたが、法隆寺は少し離れているのでそこまで人は多くなく、ゆったりと拝観できるのがとてもオススメのポイントです 

    東大寺の対極・女帝が愛した西大寺へ

    聖武天皇が建立した東大寺、その西に平城京を守るよう建てられたのがこの西大寺、今はほとんどの観光客が東大寺に集中し、こちらのお寺を訪れる人はまばらです
    西大寺は聖武天皇の皇女で二度の帝位に就いた称徳天皇が建立したお寺、恵美押勝の乱の後鎮護国家を願って、765年から15年の歳月をかけて造営され、当時は約48ヘクタール(東京ドームの10倍)の大伽藍で、東西に五重塔を配置する広大なものでした
    二度目の位に就く前大病を患った女帝に近侍してその病を癒したのが、その時の東大寺別当(お寺の最高位)の立場にあった良弁の推薦を受け、その後異例の出世を遂げた僧侶・道鏡、女帝の寵愛を盾に最後は皇位を譲るようそそのかし、日本の歴史に残る悪人の一人とされています
    現代の研究では道鏡にそこまでの野心や権力はなく、その後の皇位継承者が自分たちの立場を正当化するために、過度に悪評を書き立てた可能性が高いとも言われています
    近年道鏡の出身地・八尾の市民団体が今風に言えば、政敵からのネガティブキャンペーンに晒され、ファクトチェックされないまま1200年以上も風評被害を受け続ける道鏡に同情し、名誉回復を図ろうと地道な活動を続けています
    2020年その活動の一つとしてこの西大寺に道鏡の座像が奉納されました、実際の座像は悪人とはかけ離れた目元涼やかなイケメン、どちらにせよ絶えざる権力闘争に悩まされ常に緊張を強いられた女帝にとって、道鏡と西大寺の建立が心の支えになっていたのは事実のようです

    撮影禁止ですが本堂の歴史を感じる仏像や菩薩像は一見の価値あり
    南門から見た本堂、桜が美しい

    この日は斑鳩から奈良へ戻り興福寺至近の宿へ、その記事はこちらです
    ホテル近くの藤原氏の庇護で大いに栄えた興福寺の周りも桜が満開でした

    興福寺本殿と桜
    興福寺南円堂
    鹿たちもお花見

    日本仏教発祥の古刹・元興寺

    旅行最終日に立ち寄ったのは日本仏教界の起点ともいえる元興寺、今まで仏教伝来は552年と言われていましたが、ここ『元興寺縁起』には538年朝鮮半島の百済王が日本の朝廷に仏像や経典を贈ったと記されています
    仏教は単に宗教の枠にとどまらず、文字や建築・彫刻・絵画といった当時の最先端の文化と技術、そして国家統治の思想を伴って伝わって来ました、この仏教に対して飛鳥時代の権力者達はそれぞれの思惑で対応を決めます
    最も積極的に仏教を取り入れたのは豪族の中でも発言力のあった蘇我氏一族、元興寺は排仏派の豪族を滅ぼした蘇我馬子が588年、日本で初めて本格伽藍を備えた仏教寺院として建立した飛鳥寺が起源です
    当時の飛鳥寺は仏教の本拠地であり、蘇我氏を通じて輸入される大陸文化の発信地、飛鳥時代の政治外交の中心でした
    奈良の平城京に都を移す際はその歴史的重要性ゆえに、飛鳥寺(元興寺)も共に奈良の地へと移されたという経緯があり、天平元年(749年)東大寺に次ぐ格式を与えられています
    その後お寺の広大な敷地は隆盛と衰退を繰り返しながら、お寺的な町名を残し奈良町の一部へと変容していきました

    極楽殿と禅室、屋根瓦の一部は1400年前の物、サステナブルの最先端は飛鳥時代だった
    名前が分かりませんが、濃いピンクの花が満開

    平安京よりも歴史が深い奈良の平城京、京都とはまた違う魅力がある日本の古都、京都も大好きですが、奈良もまたこれから季節を変えて度々訪れたいと思いました

    とっておきのグルメと観光 記事一覧

  • 日本のはじまり ― 飛鳥の史跡を歩く

    2025年1月、政府はユネスコに「飛鳥・藤原の宮都」の推薦書を提出しました。順調に進めば、2026年夏にも新たな世界文化遺産になります。
    592年に推古天皇が即位してから710年に元明天皇が平城京に遷都するまでの約120年間の大半、飛鳥とその周辺に都が置かれていました。この時代は、隋唐や朝鮮半島の百済・高句麗・新羅との交流が進み、特に百済から知識・技術や文化・宗教を取り入れつつ、政治や文化が大きく変わって発展を遂げた時代でした。前方後円墳によって政治的権威を示した時代が終わり、天皇の墓は方墳、八角墳に変わりました。
    この時代に、自分たちの国を「日本」と呼びはじめ、大王は「天皇」という呼び方に変わり、律令制が整備されて天皇を中心とした中央集権的な国家に変わりました。

    車木ケンノウ古墳 ― (皇極)斉明天皇陵(間人皇女と合祀))として宮内庁に管理されている
    復元整備された牽牛子塚(けんごしづか)古墳 ― 最近は斉明天皇陵として有力視されている
    於美阿志(おみあし)神社 ― 境内に檜隈寺(ひのくまでら)跡がある
    檜隈寺跡 ― 有力な渡来系氏族・
    東漢氏(やまとのあやうじ)の氏寺

    推古天皇は豊浦宮(とゆらのみや)で即位し、蘇我馬子や聖徳太子らとともに、政権基盤作りを進めました。冠位十二階、憲法十七条を定め、遣隋使を派遣して対等な関係を表わす文書によって隋の煬帝を怒らせました。

    豊浦宮跡のある現在の向原寺
    橘寺 ― 聖徳太子の生誕地に建立された

    6世紀半ばに百済から公伝された仏教は権力者に受け入れられ、蘇我馬子は、渡来系氏族の協力を得て法興寺(地名から飛鳥寺)を建立しました。

    飛鳥寺 ― 釈迦如来坐像が今に伝わる
    石舞台古墳 ― 蘇我馬子の墓とされる

    蘇我氏は権力を強め、蘇我蝦夷・入鹿の時代には、舒明天皇やその皇后で後を継いだ皇極天皇の力は限られたものでした。

    甘樫丘 ― 蘇我氏の邸宅があった
    元興寺(がんごうじ) ― 法興寺(飛鳥寺)が奈良の新京に移転して名前を変えた

    しかし645年に皇極天皇の子の中大兄皇子が中臣鎌足らと協力して蘇我入鹿を切り殺し、蘇我蝦夷も自殺に追い込まれました。この乙巳の変によって大化改新が始まりました。

    飛鳥宮跡 ― 舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の後飛鳥岡本宮、天武天皇の飛鳥浄御原宮が重複している王宮跡。蘇我入鹿は飛鳥板蓋宮で朝鮮半島からの使者謁見儀式の際に殺された

    皇極天皇の後を継いだ弟の孝徳天皇は難波に遷都しますが、皇極・中大兄の母子が飛鳥に戻ってしまい、孝徳天皇は失意のうちに病死しました。そこで、皇極天皇があらためて斉明天皇として即位しました。彼女は、既に蘇我氏の権力がなくなった飛鳥で、宮殿や大規模な祭祀場、饗宴場など建設工事を積極的に進めました。一方で、蝦夷対策として阿部比羅夫を派遣して日本海側を北上させ、朝貢してきた蝦夷を饗応しました。

    酒船石(さかふねいし)遺跡 ― 斉明天皇が建設した大規模な祭祀施設の一部。ここで行われた祭祀が後の大嘗祭に繋がっていく
    亀形石造物 ― 湧水を酒船石から亀形石槽へ流して濾過し祭祀を行ったと考えられる
    飛鳥京跡苑池 ― 飛鳥宮の庭園で、二つの池と水路が作られた
    石神遺跡 ― 饗宴場の跡と考えられる
    飛鳥水落(みずおち)遺跡 ― 石神遺跡に続いている漏刻(水時計)台の跡

    661年に百済が滅亡すると、百済の貴族層が多く亡命してきました。伝統と融合した文化が花開き、詠まれた歌は奈良時代に万葉集として編纂されました。一方、百済再興を目指して協力した白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に敗れました。中大兄皇子が斉明天皇の後を継いで天智天皇として即位し、近江大津宮に遷都して各地に土塁を築くなど防御を固めました。

    川原寺跡 ― 斉明天皇が一時的に使用した川原宮の跡に天智天皇が建てたとされる寺院

    天智天皇没後、その子大友皇子が即位しようとしますが、吉野にいた天智天皇の弟の大海人皇子が672年に近江に向かって戦いを起こし、この壬申の乱に勝利した大海人皇子が即位して天武天皇となりました。そして再び飛鳥を拠点にして国づくりに邁進します。
    これを引き継いだ皇后の持統天皇は、律令制を整備して飛鳥浄御原令を発し、また飛鳥の北に本格的宮殿を備えた藤原京を作りました。

    藤原宮跡 ― 藤原京の中心部で大極殿などがあった
    藤原宮跡

    これまで便宜的に「天皇」と書いてきましたが、大王がこの時代に「天皇」に変わり、また「日本」が使われるようになりました。推古天皇即位以来の飛鳥での国づくりが、天武・持統天皇によって日本国となって結実し、701年の大宝律令によって律令制が完成しました。

    天武・持統天皇陵 ― 持統天皇は天皇で初めて火葬された

    日本のはじまりの地・飛鳥を、ゆっくりと巡ってみてはいかがでしょうか。

    とっておきのグルメと観光 記事一覧

  • なぜ法隆寺五重塔は地震で倒れないのか

    3世紀後半以降、ヤマト王権が権力を伸ばし、飛鳥・奈良は古代の政治の中心として栄えました。

    飛鳥宮跡
    聖徳太子生誕の地・橘寺

    奈良の斑鳩にある法隆寺は、7世紀初に聖徳太子によって創建されたと伝えられています。

    法隆寺金堂と五重塔
    法隆寺境内

    法隆寺五重塔は、一度焼失しましたが、7世紀後半に再建されました。金堂とともに現存する世界最古の木造建築で、地震の多い日本で1300年以上にわたって倒壊を免れてきました。飛鳥時代、奈良時代だけでも、684年の白鳳地震(南海トラフ地震)、734年の畿内七道地震、745年の天平地震などの大地震があり、その後も平安時代や南北朝時代の地震、江戸時代の大和地震(1854年)などの記録があります。昭和・平成の時代にも大きな地震がありました。しかし、法隆寺五重塔は現代に至るまで、倒壊せずにその荘厳な姿を保っています。

    倒壊しない理由は、地盤の硬い立地にあることに加え、構造の工夫・木材の特性・伝統技術にあると指摘されています。それは、地震の揺れを吸収・分散させる構造、しなやかで折れない構造、ゆるゆるの構造です。強い揺れを受け流すための仕組みが組み合わさっています。
    屋根は上に行くほど小さくなり、重心が低く保たれています。そして、五重塔は1本の固い建物ではなく、層ごとに独立して動く構造であるため、揺れが分散されます。各層の庇は独立して動き、上の庇と下の庇が反対方向に揺れるなどにより、揺れ同士が打ち消し合います。

    また、使用されているヒノキなどの木材は、軽くしなやかで衝撃を吸収しやすいもので、石やコンクリートとは違って、曲がって力を逃がす性質があります。
    法隆寺五重塔は、大陸の技術にはない地震に強い建築の匠が最大限に活かされた建物なのです。

    法隆寺だけでなく、各地の五重塔や三重塔の基本的な設計は共通していて、火災で焼失した記録は多くありますが、倒壊の記録がほとんどありません。
    釘を使わずに木と木を組み合わせる継手や仕口は、部材の取替え、修理を容易にしています。

    興福寺五重塔の修繕
    長谷寺五重塔の修繕

    これまでの説明のほか、心柱(しんばしら)の役割も注目されています。多くの五重塔で、中心にある太い心柱は、基壇の礎石に固定されているのではなく、宙に浮いたように設置され、塔の最上部から吊るされています。この構造は、大きな揺れが生じたとき、まるで振り子のように塔全体の揺れを心柱が吸収・緩和するようです。スカイツリーの中央階段は、心柱を参考にしたとのことです。
    また、重い庇を支える16本の柱が礎石の上に置かれていますが、固定されずに乗っていて、地震の際には建物全体がわずかに滑るように動き、力が分散されることもあるようです。これはまるで免震装置です。

    薬師寺東塔(奈良)
    醍醐寺五重塔(京都)
    池上本門寺五重塔(東京)
    飛騨国分寺三重塔(高山)

    古代の技術者は、大陸から伝わった技術に捉われず、頻繁に起こる地震を経験することによって積み重ねてきた木造建築の匠を五重塔、三重塔に結集させ、倒壊しない搭を見事に作り上げたのでしょう。

    ジオ日本学びの旅 記事一覧

  • 圓山大飯店と士林夜市を楽しむ

    望郷への思いがレガシーとなった五つ星ホテル

    台湾に来たらここを見ずには帰れません、中国の祝福の色・赤に彩られた『圓山大飯店』、日月潭のラルーホテルは蒋介石の人生が色濃く感じられましたが、こちらのホテルは元総統のファーストレディ、宋美齢の人生がここかしこに息づいています
    宋美齢は浙江財閥・宋家三姉妹の末娘、当時の中国の資産家の子弟らしく、10代にもならないうちにアメリカに留学した才色兼備の女性、中国の革命運動に身を投じていた蒋介石にとって、国のリーダーとして飛躍するためにはその財力と人脈が必要不可欠でした
    政略結婚のように思われていますが、恋愛結婚だったとのエピソードもあるお二人、蒋介石が西安事件で拉致・監禁された時、夫を救出するために自ら敵地に乗り込み、首謀者・張学良との解放交渉に臨み、もし失敗した場合は自害するためのピストルを忍ばせていたとか
    正に一蓮托生、動乱の時代を支え合って生きた夫婦であり、お互いの為に命を賭ける戦友のような存在だったのかも知れません

    松山空港からも見えるランドマークホテル
    昔切手に描かれた時のファーストレディ

    映画にもなった『宋家の三姉妹』、毛沢東思想の中でその生き方を評して、宋靄齢(長女)・宋美齢(三女)・宋慶齢(次女)の順に、「一個愛錢、一個愛權、一個愛國」と言われています、漢字文化の日本人なら表現している意味がなんとなく分かりますね
    その表現の通り宋靄齢(長女)は蒋介石の支持者、富豪で財務大臣も歴任した孔祥熙と結婚(愛錢=金を愛した)
    宋慶齢(次女)は中国近代化の父・孫文と結婚、夫の死後中国本土に残り蒋介石を批判し共産党を支持、中華人民共和国副主席として本土の安定に貢献しました(愛國=国を愛した)
    そして宋美齢(三女)はアメリカ育ちという語学力と行動力と活かし蒋介石をサポート、アメリカのルーズベルト大統領の支援を得て中華民国空軍を設立、抗日戦争を勝利へ導く大役を担い、ドラゴンレディと呼ばれました
    後に共産党に敗れ中国大陸から台湾に逃れた後も、夫と大陸への政権復帰に情熱を傾けます(愛權=権力を愛した)
    ただ三人とも戦争で荒廃した地域の学校、病院、孤児院、防空シェルターを頻繁に訪問し、資金提供とあらゆる国家活動の支援に奮闘したようで、主義主張は違っても三人三様、とにかくそのスケールの大きな生き方に頭が下がります

    圓山大飯店は1950〜60年代の冷戦期に、台湾・中華民国が「中国の正統政府」であることを国際社会に示す必要性から、台湾政府が外国の元首や要人を迎える為に、国家戦略として建設された政治色の強いホテルです
    そのため蔣介石政権下で整備されたホテルは、中国文化の正統性をアピールし、政治的メッセージを伝えるために、宮殿風の豪華な建築様式と中華の伝統的な演出が随所に散りばめられています
    ここは単なるホテルではなく大切な外交の舞台装置であり、「国家の顔」として重要な役割を担った迎賓館でした、そしてその女性主人公として舞台の中央に立ち続け、最も輝いたのがドラゴンレディ・宋美齢その人です
    実際アメリカ大統領、各国の国家元首が台湾に来訪し、このホテルを舞台に華やかな外交が展開された時期があります、主要国のリーダー達が畏敬の念をもって見上げるような、中国文化の真髄を披露するための空間はとにかく壮麗の一言

    一時期世界一の広さと言われたゴージャスなロビー
    劇場の大階段のように、当時の世界政治の主役達が今にも降りてきそう
    中華思想を表す天井彫刻・無数のドラゴンが舞い踊り、龍宮城との呼び名も
    大階段の上から見た景色、通年レッドカーペットでゲストを迎えています

    もともとこのホテルには日本統治時代に神道を定着させる為に、1900年(明治33年)に建立された台湾神社があった場所、台湾最高位の格式を誇った神社に青銅製の龍が奉納されていましたが、大戦の空襲でそのほとんどが焼失した中で、龍の彫刻は奇跡的に焼け残っていました、その龍は1987年金箔を施され『百年の龍』としてホテルの2階に展示され、パワースポット的にゲストが訪れています
    また中華圏では入口にその地域や施設のシンボルとして建てられる、牌楼という建物がありますが、日本時代の神社が取り壊された後、その鳥居の場所にこの楼が立てられる事が多かったそうです、圓山大飯店の牌楼も位置的に鳥居だった場所に、ホテルの正門にあたる牌楼を建てたのかも知れません

    台湾神社時代の龍、ここにも日本の名残が
    台湾神社時代のイラスト
    ホテルの正門ゲート・牌楼、こちらも華やか

    現在の圓山大飯店は、日本のパレスホテルが運営している格式高い五つ星ホテルとして、外国人観光客やビジネス関係者に歴史的な建物の持つ優雅さと、現代的なホテルサービスの両方が享受できる憧れの存在として、今日も台北の街並みを見下ろしています

    広い中国風バルコニーから市街地が一望できます
    お部屋のインテリアは比較的ベーシック
    松山空港からタクシーで15分、市街地を低空飛行するジェット機に驚きます

    食熱の台湾夜市

    圓山大飯店からバスで10分程度、宮殿のような空間からたった数分で庶民の生活圏にワープできる、そんな面白さが味わえるのが士林夜市
    台湾は屋台文化が発展していて、お祭りや特別な行事が無くても屋台が出る場所が多く存在します、台北には夜市として有名な寧夏・饒河街夜市等がありますが、その規模と人出の多さは士林夜市が一番の様です
    ホテルから40分おきにシャトルバスが出ていて、最終便は22:00、毎晩が祭礼の街へと連れて行ってくれます

    17:30のバスに乗って夜市へ
    夜市というにはまだ明るいですが、すでに多くの人が

     まず行ってみたのは『るるぶ台湾』に載っていた、地元の名店『海友十全排骨』、15種類の漢方薬と牛骨を10時間以上煮込んだスープが有名、地元の人たちはご家族やカップルで麺等と一緒に夕食代わりに楽しんでいる様子、いろいろ食べ歩きたいので私たちはスープだけとても窮屈な相席で頂きました

    黒服の店員さんが大声で行列を仕切りながら、客引きもする二刀流?
    結構野性的な見た目、地元の人は骨を手でつかんで豪快に食べていたので、郷に入れば郷に従えです
    日が暮れると通りは人であふれかえっています

    士林夜市は台湾で信仰されている多くの神様が祀られている『慈誠宮』の門前に、屋台が集まったのが始まり、基河路・大東路・大南路・安平路街・文林路というそれぞれ100m~200m前後の通りに、食べ物だけではなくファッションやお土産、ゲームなどのお店も出て毎晩お祭り騒ぎに

    慈誠宮の建物、こちらの神様はライトアップがお好き
    赤と黄色も大好きなようです
    日本のイメージとは真逆の赤ちょうちん屋台
    士林の夜空にきらめくのは、星ではなく赤赤赤
    夜市名物・海老釣りは、釣った海老をその場で焼いてくれます

    下記のジュース屋台の看板をGoogle翻訳にお願いしたら、新鮮なスイカジュース・カップ1杯35元(約175円)、カップ3杯100元(約500円)との翻訳、3つ並んだ大きなジュース撹拌機、向かって左端の翻訳してくれなかった火龍果というフルーツは、たぶんドラゴンフルーツの事かなと、そちらも100%果汁で販売されているのがいかにも亜熱帯の国らしい

    夜市を楽しむのはエイジレス、三世代ご家族連れ、カップル、青春真っ只中の若者たち、そして私たちのような異邦人、ここに来ると日本なら年に2回ぐらいの神社のお祭り屋台が、毎日日付が変わるぐらいまで楽しめます
    スープだけだと物足りないのでリニューアルした美食街へ、35店の屋台が集まる屋台村フードコートで、ここは日本人も多く来るらしく片言の日本語で対応してくれました、落ち着いて食べたい方向けとネットでオススメされていましたがとにかく騒がしい、この場合の落ち着いては、私的に翻訳すると座って食べられるという事と、地下1階なので雨の日でも飲食できるという意味、屋台グルメを楽しむなら普通の落ち着いてを期待してはいけないようです

    落ち着いている?と言われた美食街
    老舗ステーキ専門店の定番、牛肉が隠れるぐらいのソースとパスタ・目玉焼きを添えるのが台湾流
    台湾定番空心菜の炒め物、量が多いのに箸が進んで完食

    ワイルドでエネルギッシュな台湾夜市の食文化を楽しんでホテルに帰ってくると、美しい夜景が出迎えてくれました、高層ビル101は雲の中ですが、明日の朝にはここを離れると思うと名残惜しいです

    中国とも日本とも関係が深く、それゆえにそれぞれの国の利害や思惑に影響されがちな島国台湾、一時は同じ国民として歩んできた歴史を思うと、親日でいてくれる事に改めて感慨深いものがあります
    台北→台南→台中→日月潭→台北と5泊6日、美食・美景の駆け足の台湾旅行でしたが、見どころが沢山あってまだ観光したかった場所もありますが、また次に来台する日を楽しみに明日は帰国の途につきます

    読んで頂いてありがとうございます、こちらのブログが皆様の楽しい旅のお役に立てたなら幸いです

    とっておきのグルメと観光 記事一覧

  • 台湾屈指の湖畔リゾート「日月潭」の見どころ

    山紫明水の世界で悠久の時を

    リノベーションの街・台中とミシュランビブグルマンの台湾中華を楽しんだ後、台中新幹線駅で今日の宿泊ホテル『The LALU』(ザ・ラルー)の送迎車にピックアップしてもらって約一時間、台湾屈指のレイクリゾート日月潭を目指します

    申し込めばホテルの車で迎えに来てくれます
    大都市台中からしばらく走ると、山がちな景色に変わってきました

    日月潭は台湾中部・南投県にある台湾最大の湖、箱根の芦ノ湖よりやや広く、標高は700mを超えて芦ノ湖とほぼ同じ、「潭」とは水を深くたたえた場所を表す漢字、湖の東側が「日(太陽)」、西側が「月(三日月)」の形に見えることからこの名がついたようです、
    もともと湖は台湾原住民族の一つタオ族の生活圏で彼らの聖地、漁業や狩猟を行いながら暮らしていて、現在も周辺に集落が残り文化が継承されています
    清朝時代には漢民族の移住が進み農地開発が行われ、日清戦争後の日本統治下の1934年に水力発電所が完成、この工事により湖の面積が拡大、現在の姿に近い形になりました
    あわせて観光地としての整備も進められ、戦後蒋介石総統はこの地を好み、湖畔には文武廟が整備され、慈恩塔などの施設も作られ、現在は台湾有数のリゾート地として、サイクリングロードや遊覧船、原住民族文化体験ができる施設もあります
    ずっと一度は行きたかったレイクビューが美しく静かな立地にある憧れのホテル『The LALU』は、元々日本統治時代日本高官の保養所で、中華民国建国後は蒋介石総統の別荘となり、2002年にはホテルとしてリノベーションされ、日月潭有数の高級リゾートホテルとして開業しました
    ホテルは湖に突き出した半島小島の場所にあり、最上階のレセプションから湖面へと降りていくように建てられています、部屋はB棟5階のスーペリア スイート レイクビュー、部屋に入るなりリアル水墨画の世界と言われる景色が広がります

    湖の後ろにグラデーションのように山が折り重なる絶景
    部屋のどの場所からもレイクビューが楽しめます
    刻々と表情を変える景色が楽しめるデイベッド・屋根付きテラス
    早速台湾茶とこの景色を堪能

    すべての部屋がスィート仕様なので、居心地の良さは同じだと思いますが、湖のこの景色こそがホテルの醍醐味

    夕暮れが迫る湖面の美しさも秀逸

    ディナーはホテルの中華レストラン『湖光軒』を予約、高級店ではありますがお値段も服装も比較的カジュアル、私たちの周りも家族やお仲間で会食しているような地元の方々でにぎやかでした

    湖も山も濃いブルーに染まり絵画のよう、ラルーブルーと呼びたい

    コースの内容を前もって調べるととても食べきれない感じだったので、アラカルトでお願いしました、最初に出てきたのは『蒋介石元総統専属シェフ秘伝の蘇州風ポークリブ』、蘇州と蒋介石出身の浙江省は比較的近いので、故郷の味なのかも知れません、台湾料理によく使われる八角等のスパイスが苦手な人でも美味しく食べられます

    前菜代わりに頂いたスープ、阿里山という台湾のお茶の名産地でとれた新鮮なタケノコスープとキノコと鶏肉のスープ、どちらもあっさりしているのに滋味を感じて、主人は流石の一言でした

    スペシャルメニューの『日月潭の曲腰魚の蒸し魚』、こちらのお魚は「President Fish」と英語表記されていたので、やはり蒋介石ゆかりのお料理かも知れません、淡白な白身魚ですがソースと薬味が絶品、お店のスタッフさんが注文時にとても大きいですが・・と心配そうにアドバイスされましたが、二人で完食しました
    でもお薦めは出来ません、あまりに小骨が多くて取り除くのに一苦労、食べ終わったお皿を面白がって写真に撮りましたが、漫画のような姿になってしまったプレジデントフィッシュここには載せられないです

    ディナーを終え外廊下に出るとすっかり日が落ちて幻想的な夜の湖が広がります、暗い湖と山肌をともしびの様に照らしているのは慈恩塔、蒋介石が亡きお母様を偲んで建てた供養塔です

    写真の中央にほのかに輝くのが慈恩塔

     次の日も晴天、この景色を見るためには晴れる事が必須、こればかりは自分ではどうにもできません、とにかく感謝です

    明け方光を絵筆に湖をキャンバスに、青の濃淡で墨絵が描かれていくよう
    朝日が昇ってくると、また湖の表情が変わります

    朝食は『オリエンタル・ブラッスリー』の和洋中ビッフェです、こちらも湖を眺めながらお食事が頂けます、お料理のクオリティも高いですが、やはり景色の持つ開放感がすべてを美味しく感じさせてくれます

    国父の桃源郷・日月潭を巡る

    この日はホテルのオプションで湖畔一周ツアーをしながら、台中駅まで送ってもらえるようお願いしました、以下に主な見どころを紹介します

    文武廟
    ダム建設によって水没する湖畔の龍鳳廟と益化堂が、文武廟として現在の位置に移設再建され1938年に完成しました
    それから約30年、1969年から1975年にかけて全面修築が行われ、その間計7回視察に訪れた蒋介石総統は、工事の進行具合を気にかけ予算を調達し、各界に全面支援を要請し、建築様式には北朝式が用いられて、台湾最大級の廟として風格ある姿になりました

    文武廟の廟門、中国式はとにかく華やか
    廟門をくぐるとデコラティブな前殿に文の神様・孔子を祀っています
    中殿は武の神様、祀られているのは中国の名将軍・岳飛や関羽
    前殿と中殿の階段に有名な九つの龍の彫刻が、今にも動き出しそうな迫力
    ここから日月潭の全景が望める事でも有名

    玄奘寺
    玄奘寺は1965年に建立された仏教寺院で、日本のドラマでも大人気だった『西遊記』で有名な玄奘(三蔵法師)の功績を称えるお寺です、架空の人物と思っている人もいるようですが、中国・唐の太宗の皇帝時代、中国の仏教界に多大な影響を与えた実在の人物
    玄奘は複雑な国際情勢に置かれた唐で、他国への出国が禁止されている中、真の仏法を求める心が止みがたく、国法を犯して十数年の歳月をかけて、仏教の祖であるお釈迦様の生誕地・インド(天竺)へ赴き、650部あまりの経典を持ち帰った高僧です
    『西遊記』はその1000年以上後、玄奘が出国してからインド(天竺)に着くまでの艱難辛苦を、弟子の孫悟空・猪八戒・沙悟浄との奇想天外な物語として書かれた、中国の白話小説(話し言葉で書かれた大衆文学)です
    インドからの帰国後玄奘はその功績により皇帝から多大な庇護を受け、弟子とともに経典75部を中国語に翻訳、1,335巻を作りました
    玄奘が亡くなると盛大な国葬が営まれ、遺骨は唐の都長安(現在の西安)に埋葬されましたが、高僧の徳を広めるために各地に分骨され、大戦中南京にあった遺骨を日本人が発見、分骨され最初芝増上寺に、その後埼玉県の慈恩寺に移したという経緯があります
    その後1955年に日月潭付近の玄光寺に分骨され、さらに玄奘寺の完成後ここに納められました、玄奘寺には玄奘の足跡だけでなく台湾仏教史の解説も展示されています

    しっかり漢字で玄奘殿と読めます、この中に玄奘の聖骨が納められています
    玄奘の足跡、現代の交通網があっても気の遠くなるような旅程
    赤い蓮のろうそくに囲まれた三蔵法師
    鐘もありましたが、太鼓もあるのが珍しい

    玄奘三蔵法師が残した功績で、それと気づかずに多くの人が影響を受けているものに、インドから持ち帰った大乗仏教の真髄を説く「般若心経」を、インドの古代語からたった276文字からなる漢字の経典に翻訳したという事があります
    仏教に全く縁のない人でも、お葬式や観光地のお寺で唱えられている般若心経を耳にした事があるはずです、有名な言葉に「色即是空・空即是色」が有りますが、難解な仏教の世界観をこの漢字8文字で見事に表現した、歴史的キャッチコピー(複雑な内容でも研ぎ澄まされた数文字で、多くの人にイメージを伝えるという意味で)だと感じます
    日本でも1400年間にわたってその時代の政治的指導者、知識人から一般庶民の間で親しまれ、個人的な悩みや不安、執着を解き放つ〝最強のマインドフルネス・ツール〞として近年注目されています
    実際スティーブ・ジョブスやジョン・レノンをはじめ世界の著名人が般若心経の魅力に気づき、ストレスフリーなライフスタイルの実践に活用してきました
    仏教思想によってより良い世界を創るために人生を捧げた玄奘三蔵、般若心経に触れる機会があれば、その志が凝縮された267文字の思いの丈に、少しでも関心を持ってもらえれば嬉しいです

    慈恩塔
    慈恩塔は、1971年、蒋介石総統が自らの母に対する感謝の気持ちを表して建てたもので、同時に国民に孝行の大切さを示しました
    慈恩塔は海抜954メートルの沙巴蘭山の上に立つ高さ46メートルの八角形の塔で、最上部がちょうど海抜1,000メートルにあたり、日月潭のランドマークになっています
    慈恩塔、玄奘寺、日月潭に浮かぶホテルのある拉魯(ラルー)島は一直線上に並んでいて、しばしば湖の水を飲む龍に例えられます
    拉魯島が龍の口、玄奘寺が龍の頭、慈恩塔が龍の心臓に位置し、また塔の前には宮殿式建物があり、中に蒋介石の母の霊が奉られています

    すぐ側の駐車場から塔にたどり着くまで、かなりの山道を歩きます
    時間が無くて搭の上まで登れませんでしたが絶景だそうです、エレベーターは無いので時間・体力のある人はぜひ

    ご母堂は早くに夫を亡くし貧しい生活の中でも、教育熱心に子供達を育て慈愛に満ちた人だったとか
    台湾の中華民国建国の父とも言える蒋介石、中国近代化のシンボル・孫文の右腕となり、数多の政敵と渡り合い暗殺の危機を脱して、第二次世界大戦中は日本軍と戦い、戦後は終生のライバルとなる毛沢東率いる共産党軍との内戦に敗れ、台湾に『中華民国』を建国したというまさに波乱万丈の人生
    現代の台湾ではその政治手法に賛否両論有るようですが、二十世紀の国際政治の主役の一人であったことは、誰もが認めるところです
    国父は日月潭のほとりに自身が思い描く中華思想の理想郷を具現化しながら、束の間この美しい景色に安らぎを感じていたように思われます

    とっておきのグルメと観光 記事一覧

  • 台中 - リノベーションの街を散策

    旧き日本を訪ねて新しき台湾を知る街・台中

    台湾4日目は午前中に台南を後にして、台湾新幹線で憧れの日月潭のホテル送迎の待ち合わせ場所、台中へ向かいました
    台中周辺にはもともと平埔族などの台湾原住民が暮らしていましたが、17世紀後半になると、清朝の下で大陸の福建や広東などから漢人が移住して中部台湾の開発が進み、現在の台中市には大墩という町が形成されます
    日清戦争後の日本統治時代になると、台中は学校や官庁などの建設、公園や碁盤目状の道路、鉄道の整備などにより、台湾中部の中心都市としての基盤が作られました
    戦後の1960〜80年代には工業化が進み、機械・精密工業などの産業都市として発展し、現在は台湾第2の都市圏として、商業・文化・教育の中心地になっています
    市内中心部には日本統治時代の役所や医院、学校跡など多くの歴史的建物があり、旧台中駅舎や市役所(旧台中州庁舎)、宮原眼科などの多くがリノベーションによって、魅力ある施設に生まれ変わっているので、新旧の融合を楽しみながら街を散策出来る魅力があります

    新幹線(高鉄)台中駅から乗り換える在来線(台鉄)新烏日駅ホームの表示は「海線・山線」、台中駅へは「山線」に乗車

    日本にもありますが、新幹線駅は街の中心部の駅から離れた所に作られている事が多く、台中も新幹線駅から在来線台鉄に乗って15分ぐらいの場所に台中駅があります
    晴天で週末だったこともあり駅はかなりの人出、迎えの時間まで4時間ほどあるので、台中市内の散策を楽しむ事に、台中は台北よりも街がコンパクトな印象、その分日本統治時代の建物が大切に残されていて、どことなく懐かしいような感じさえします
    台中駅そのものが近代的でスマートな新駅舎の隣に、日本統治時代に建てられたレンガ作りの旧駅舎が残されている、まさしく旧き日本と新しい台湾が融合したモデルスポット

    向かって左が近代的な新駅舎、右が旧駅舎です
    旧駅舎は東京駅に似ていると思ったら、やはり同じ辰野式の設計

    旧駅舎と昔のプラットホームと役目を終えた電車が、小さなショップやフリーマーケット会場として再利用されていました、日本時代の遺構が目的を変えて活かされ、今の台湾の人達で賑わっている様子に和みます

    利用されなくなった旧駅舎のプラットホーム、電車の中にも沢山のお店が有りました

    魔法にかかった不思議な眼科

    台中駅から3分位歩いた所に、市内随一の人気スポット『宮原眼科』が有ります、宮原眼科は日本統治時代の台中で日本の眼科医、宮原武熊氏によって約100年前の1927年に建てられた眼科です
    しかし、1945年の日本の敗戦とともに宮原医師も日本へ帰国、宮原眼科の建物は台中衛生院として利用されましたが、その後1999年の台湾中部大地震や2008年の台風などで屋根と内部の損傷が激しくなり、台中市政府は取り壊すことを決めました
    その時同市で飲食店の経営やパイナップルケーキの製造販売で有名な、『日出集団』の創業者・頼淑芬氏が、この建物の解体を惜しんで購入を決め、現存部分を生かし新旧を融合させた建物として、再生することにしました
    例えば1階部分のアーチ型の門や2階の13個の窓などを残し、店内は廃材を利用して棚や屋根瓦で作った広告入れなどで趣を演出するという工夫をしています
    一歩店内に足を踏み入れるとそこはまるで映画『ハリーポッター』の主人公たちが通う魔法学校のよう、天井は高く商品棚は図書館の本棚のように分類表示がされ、商品には書籍のようなパッケージが施されています

    年代を感じさせるレンガ造りの上に近代的なビルが建っています
    パリーポッターの世界観のような店内のインテリア
    台中のお土産をディスプレイしている家具もアンティーク風で素敵
    入口のタイルにアリさんの絵が・・・千客万来の願掛けでしょうか
    ビルの外には同じ会社のテイクアウトメインのスイーツカフェ、確かに千客万来・アリさんのご利益があったようです

    ランチ時だったので2階の台湾レストラン『醉月樓沙龍』へ、詳しい記事はこちら

    もう一つ、台中市内には日本統治時代の1911年に建てられた旧市役所がリノベーションされて、レストラン・カフェ併設のアートな複合施設になっています
    この日は生憎レストランが貸切り(雰囲気的に結婚式のようでした)だったため、残念ながら見学できませんでした

    昔の市役所はホテルの別館のような風格が有ります

    市役所から2〜3分歩くと、赤レンガの建物の2階に『Hausinc 1035』というカフェがありました、こちらも1910年代に建てられ、最初はタバコ店としてその後鈴木病院として使われていた建物が、カフェ、ベーカリー工房、ギャラリー、建築事務所として再利用されています
    カフェの入口近くに4年の歳月をかけて、完全な再建築よりはるかに時間と手間のかかったリノベーションの説明があり、古い要素を模倣するだけでなく、新旧の違いを明確に区別して、二つの時代を際立たせることを目指したとの熱い思いが語られていました

    お店入口のハンドサインは1035、因みに鈴木医院だった頃の電話番号だそうです
    ベーカリー工房とテイクアウトコーナー、病院時代の受付?
    店内は若者で賑わっていて、台中市民の語り場のよう
    丁寧に作られた美味しいカプチーノ

    このカフェの本店はフードメニューのクオリティも高い人気店だとか、たぶんお食事もおすすめ出来ると思うので、台中に行った時は是非立ち寄ってみて下さい

    とっておきのグルメと観光 記事一覧

  • 台中 - 高コスパおすすめランチ

    台中の飛び込みミシュラングルメ

    素晴らしい料理は必ずしも高額である必要はない事を証明するため、1997年「価格以上の満足感が得られるレストラン」への評価、ミシュランビブグルマンが登場しました
    ビブグルマンは「ミシュランの星」と比べて知名度は低いですが、星付きレストランと同じように入念に調査をされ、ミシュランガイドのファンから長く愛されています、三つ星のように段階的な評価ではなく、ビブグルマンの定義は「価格以上の満足感が得られる料理」という1つのみ
    良質な料理であることは大前提ですが判定基準に厳密なルールは無く、ユニークでシンプルな調理法、気軽に食べられて良心的な価格で満足できる事、とにかくコスパの良いグルメ体験が出来るというのが、ビブグルマンレストランの特徴です
    台中の宮原眼科の2階には、そのミシュランビブグルマンのレストランが有りました
    リノベーションビル・宮原眼科の1階の奥へ行くと、2階に上がる手前に台湾レストラン『醉月樓沙龍』のメニュー表があり、あまり考えずに入店可能かどうか聞くと、少しぶっきらぼうに一人500台湾ドル(約2500円)以上の利用が条件で、そのシステムを理解していますかと質問され、塩対応に歩き疲れてなかったら退散するところでしたが、OKですとランチを頂く事に
    後で調べると台中ツアーに組み込む場合は、予約した方が良いと書かれていた人気レストラン、飛び込みで入れてとてもラッキーでした

    この写真の中央下、見張り番の様に立っている人が説明と案内をしてくれます
    モダンチャイニーズな店内

    撮影時の影を消去しようとしたのですが、どうしても上手く編集できなくて読みづらいと思いますが、以下がそのメニューです

    点心
    スープ
    主食、チャーハン等のご飯類と麺類
    タピオカミルクティーとコーヒー
    デザートと台湾式アフタヌーンティー
    お茶菓子

    スープや炒飯は1000円前後、確かにホテルの中華と比べるとはるかにリーズナブル、取り敢えず飲茶3種を頼んでみる事に
    下調べをしてなかったので良く分からないまま注文、向かって右から点心のアスパラ焼き、左がクルミ干し柿、上がよもぎ餅

    クルミ干し柿は干し柿をペースト状にした餡の中に、香ばしいクルミを練りこんで固め、干し柿の自然の甘さと歯ごたえが絶妙の点心
    よもぎ餅は日本とは違っておかずのような具が入っていて、小籠包のお餅バージョンの様な食べ物でした

    それぞれのソースをつけると複雑に味変して楽しい

    日頃アイスティーを飲むことは稀ですが、台中発祥のタピオカミルクティー、ここに来たら頼まないのは野暮というもの、3月初旬の日本は冬が少し緩む季節ですが、台中は最高気温24度日本の初夏の陽気、半袖の人もいて歩き回ると喉が渇きます
    ミルクティーが好まれるのはこの暑さの中、甘くて口当たりが良く沢山水分補給が出来るからだと、大きめのグラスのミルクティーを飲み干す気持ちが分かりました、下に沈んだタピオカを食べるのはおやつと水分補給の二刀流という事でしょうか

    日本でのブームは温暖化の影響もあるような気がします

    台湾の国民的飲料の一つタピオカミルクティーですが、台湾の国際情勢を反映して次のようなお話が
    2004年台湾政府が国会で総額6108億台湾ドル(約3兆円)の武器購買の予算案を通過させようとした時、防衛省の宣伝文句で「全国民が毎週タピオカティーを1杯分(この日のミルクティーは200台湾ドル=約1000円)ずつ節約すれば何とかなる」と言ったことから、皮肉を込めて同予算案を「タピオカミルクティー武器予算案」と呼ぶこともあったとか
    甘いだけでは無い台湾の立場を思い起こさせてくれるエピソードです

    スープは甘いミルクティーとは真逆、しっかりした塩味が強いのが台湾料理の特徴、やはり熱い国なので水分と同時に塩分の補給も欠かせない食文化の様です、タケノコ・魚介・鶏肉等、スープに入れると旨味が増す食材のオンパレード、栄養のバランスも取れる一杯

    一人500台湾ドル×2で1000台湾ドル(約5千円)以上の注文に少し足りないとお店の人に言われて、追加注文したお茶菓子2つ、太陽餅は日本のようなお餅ではなくサクサクのパイ生地のようなお菓子で、台北がパイナップルケーキ、台中はこの太陽餅がお土産の定番だそうです

    とてもシンプルな見た目の太陽餅
    こちらは花まんじゅう、素朴な味でした

    入店までは敷居が高かったのですが、ミシュランビブグルマンの評価は伊達じゃないと感心しました、楽しい中華グルメ体験でとてもオススメなレストランです、出された点心類の中には「当店オリジナルです」と、説明するスタッフさんの雰囲気にこのお店への自信を感じました

    とっておきのグルメと観光 記事一覧

  • 九份の観光と穴場グルメ

    九份夜迷(九份の夜にさまよう)

     台湾二日目は午前中故宮博物館へ行って、一度ホテルに戻ってからJTB経由で依頼した九份夕刻ツアーに参加しました

    曇り空ですが移動中、台北の高層ビル101が見えました

    清代の九份は、台湾北部基隆山にある数十人規模の山あいの小さな寒村でした、土地はやせ農業には不向きで村の人口が少なく、主に山林資源や簡単な交易に頼るしかなく、村の9世帯の生活物資を「九つ分」まとめて買いに行っていたことから、「九份」という名前になったと言われています
    ところが1890年代に金が発見され街の様相は一変します、一説にはふもとの町で鉄道工事に従事していた作業員の一人が、基隆河の流れでお弁当箱を洗っていたら、その中に砂金を発見したとか
    おとぎ話のようなゴールドラッシュの始まりですが、九份は金鉱の町として急成長し、1895年から台湾が日本の統治下に入った後、日本政府や企業が大規模な金鉱開発を実施、近くの金瓜石とともに九份は「東洋一の金山」と呼ばれるほど大繁栄しました
    1896年には石見銀山を経営していた日本の藤田組が、この金山の経営に乗り出しましたが、日本の統治が始まったばかりの金山は治安が悪く、台湾人を採用し町の治安維持にあたらせる事になり、その中に顔雲年という人物がいました
    藤田組が後に経営権を手放した時、顔雲年はそれを引き継ぎ小さな請負業者に歩合制で自由に掘らせた結果、生産量は飛躍的に拡大、最盛期は155本の坑道に6000人が働いていたそうです
    ゴールドラッシュは長く続き、当時九份の町では「夜中には貧乏でも、夜明け前には金持ちになり、朝には立派な家が建つ」と正に一攫千金の夢が語られ、顔家はその後台湾の5大財閥に数えられるほど成長しました
    話はそれますが顔雲年には顔恵民というお孫さんがいて、そのお嬢さんが日本でも有名な歌手の一青窈さんです
    ゴールドラッシュ時には多くの金鉱労働者の為に、町には飲食店、遊興施設、行政施設がこの山間の町にところせましと建てられ、当時の日本式建築や石段の街並みが現在も残っています
    しかし第二次世界大戦後、鉱山は国民政府の管理下となりますが次第に金の産出量が減少、1970年代には閉山になりは一時九份はとてもさびれてしまいました
    ところが1989年公開の台湾映画『悲情城市』 のロケ地となった事で注目を浴び、その後赤い提灯が並ぶレトロな街並みが『千と千尋の神隠し』のモデル地ではないか話題となり、現在は台湾を代表する人気観光地として多くの人が訪れるようになりました
    九份は地形の関係で台北が晴れても九份は雨と言われ、一年の3分の2は雨が降る地域です、出かける時はレインコートと傘は必須、今日も九份に近づくにつれ雨が降り始めました

    台北16:30のピックアップで車を飛ばして約一時間、ちょうど九份に到着する頃夕暮れ時になり、夕日に照らされる海を眺めていると、日の光が消えるのと逆行するように、少しずつ九份の赤やオレンジ色の灯りが輝き始めます

    サンセットと海の見える展望台へ、ほんの少し夕日が拝めました
    まだ明るさ残る中、急な階段を提灯が照らし始めます

    街歩きを開始すると路地に並ぶ数々のお店の間を、本当に多くの人が行きかいます、多分ゴールドラッシュ当時と変わらないくらいの人出ではないかと思うくらい、今の九份は観光コンテンツという、ゴールドに代わる創意工夫の余地がある資源で、人を集め繫栄していました
    またオレンジ色の灯ろうがハロウィンのランタンの様で、ここに来ると通年お祭りを楽しめるような場所、ツァーコンダクターの方に聞くと、最近一番多いのは日本人ではなく韓国の観光客だそうで、確かに韓国語をしゃべる若い人たちが多いように思いました

    千と千尋のモデルと言われる九份ですが、その説を宮崎監督は否定しています、でもその世界観を体験できるという憧れに多く人が引き寄せられ、期せずして映画のアトラクションパークのような提灯の迷路を、みんなが楽しそうに歩いているのを見ると、ここは映画の聖地なのだと思わせられます
    こちらはこの料理を食べて千尋の両親が豚にされてしまったというエピソードを持つバーワン(映画の食べ物は違うらしいです)、サツマイモや片栗粉の皮に、豚肉やタケノコが定番の餡を包み揚げたり蒸したりしたもの、前記の経緯からジブリ飯の異名もあるようです
    台湾の人はもちもち食感の食べ物が大好きだそうで、屋台で売られたり専門店もあるとか

    日本では見かけない食べ物バーワン
    迷路のような細い路地の両側にお店が並んでいます

    ツァーコンダクターさんのお薦めで台湾ティーとお食事は、九份で一番有名な『阿妹茶楼』や『海悦楼茶坊』ではなく、『芋仔蕃薯茶坊』で頂くことに、当日雨だったので見晴らしの良いテラス席に屋根があるのがオススメポイントだとか

    お店に行くまで鉱山体験のようなこのトンネルをくぐります
    トンネルを抜けるとそこは浄土っぽいお店の前
    左に見えるお店が『阿妹茶楼』、見える景色はほぼ同じ
    お茶器は日本とはかなり違います
    お茶菓子三種
    左の器で香りを楽しみ、お茶を飲む時は茶碗へ

    お茶を楽しんでいると、お店のオーナーさんが力を入れているという台湾中華が出てきました、大きな鍋に入っているのは具沢山の海鮮ビーフン、キャベツ・人参・たけのこ・タロイモ(里芋やセレベスに食感が似ています)・干豆腐のスープの中に、丸ごとのエビやイカが入っていました
    写真を撮り忘れましたが、もう一つ『水連菜の炒め物』、水連菜は日本では手に入らない、台湾でも産地が限られている現地の高級野菜で湖に生える水草の一種です、絶妙な炒め方でシャキシャキの歯ごたえがとても美味しかったです

    珍しい中華鍋、帰国して家で早速作ってみました
    テラス席からの夜景、街の灯りが幻想的

    お店のトンネルをくぐるとすぐ有名な『阿妹茶楼』に出るので、映える写真を撮る人でごった返していて、入店も一苦労の様でした、訪れるときは予約をするのが無難です

    九份のシンボル・阿妹茶楼
    オレンジ色の灯ろうが異世界へ誘います

    ずいぶん前に観た『千と千尋の神隠し』ディテールを忘れてしまっていて比較できませんが、不思議な空間に迷い込んだような、でも楽しく美しい世界、世界中から人が集まるのが分かる気がします
    九份をゆっくり観光したいという要望が多いのか、新しくホテルもオープンするらしいです、九份夜迷(私が勝手に付けた標語です)皆様九份の夜を存分にさ迷って下さいね

    とっておきのグルメと観光 記事一覧

  • 台北の老舗商店街とおすすめの名店

    空の旅約3時間、親日の異国へ

    コロナの渡航規制から約5年、待ちに待った我が家の海外旅行解禁はとても親日の国・台湾です
    主人は仕事柄10回以上台湾に行っていましたが、時間がもったいないと観光はせずにひたすら取引先回りや打合せをしていたらしく、観光地『九份』も初めてと、ある意味台湾初心者でとても楽しみにしています

    出発日は青天、富士山と芦ノ湖がお見送りしてくれました

    フライトは約3時間、半分まで来ると鹿児島の桜島上空、後半分で台湾の首都圏人口約700万、日本の大阪位の大都市、台北の街並みが見えてきました
    地図で見た台北は山に囲まれているように見えますが、実は水に囲まれた街、街には淡水河と基隆河という2本の大きな川が流れていて、都市の大部分がこの川に面しています
    昔から文明は大河周辺に興りましたが、台北もこの2本の川を中心に発展し、17世紀にはスペイン人による侵略、後に中国人が移住を始めると水路を使った物資の運搬に利用され、地域に繁栄をもたらしました

    今も河を中心に街が広がっています

    今日の台北は生憎の曇り空、この時期大陸の冷たい風が吹くと、沖縄より南の国ですが意外と寒く、レインコートを羽織って来て大正解でした
    午前のフライトでランチタイムの機内食を頂いていたので、空港からホテルへ直行、お部屋のアップグレードで、着くなりテンションが上がります
    ホテル『JR東日本大飯店台北』とレストラン・ラウンジの詳しい記事はこちら

    夕食まで早速街歩き、地下鉄に乗って台北で最も古い問屋街のひとつ迪化街(ティーホアチエ)へ、茶葉や乾物、布地などを扱う店が所狭しと並ぶノスタルジックな街並みが人気
    最近では歴史的価値の高い商館や町屋をリノベした、スタイリッシュなカフェや雑貨店もオープンし街は活気づいています
    旅行者も多いですが、近隣の商店やまとめ買いの地元の人達が行き交い、また中華圏らしく何処の通りもカラフルにデコレーションされていて買い物をしなくても楽しい

    約100年前日本人が建て薬局だった建物を、雑貨やレトロカフェとして再生させた人気の商業ビル

    人気パワースポットは毎日がバレンタインデー

    街歩きの途中にあるのが道教寺院の『台北霞海城隍廟』、お祀りされているのは中国縁結びの神様『月下老人』、ここにご利益を求めて本当に多くの人が参拝しに来ます

    月下老人のエピソードは唐の時代の伝奇小説の中にある、次のようなお話だそうです

    一人の書生が月明かりの下、布袋を携えた老人に出会います、その老人が言うには、中の赤い縄で夫婦となる者の足を結べば、たとえ仇敵の家、貴賤の差、天涯の隔たりあっても、必ず婚姻が成就すると
    書生は気になって自分の将来の伴侶を聞いたところ、教えられた相手が貧しい少女だったので、その縁を嫌って避けようとしたが、14年後やはり運命の糸に手繰り寄せられ、その時の相手と結婚したというもの

    中国時代劇の結婚式のシーンで、新郎新婦の小指に赤い糸を結んでいるシーンをよく見かけますが、多分このエピソードから式の習慣になったようです
    これから運命の人に巡り合いたい人、結婚してお礼に来た人達でとても賑わっていました

    どの国の人も良縁は悲願のようです

    日本人の息吹を感じる珈琲カフェ

    迪化街は今も昔も多くの問屋でにぎわっていますが、その中で時折お洒落なカフェや雑貨店が点在するのも魅力の1つ
    昔のお店をリノベーションして、最近注目されている台湾コーヒーを楽しめるのが『森高砂珈琲館』、高砂(たかさご)という名前にとても日本的な親近感を覚えたら、1923年皇太子時代の昭和天皇が台湾を訪問した時、台湾原住民に『高砂』という名を提案し、台湾の別名として使われていたそうです、どうりで納得しました

    台湾コーヒーは日本統治時代、日本は工業、台湾は農業を担い、国策として国を繁栄させるという方針のもと、様々な農作物の栽培が奨励され、コーヒー豆もその1つ、日本の技術者が現地で活躍し台湾のコーヒー産業を発展させました
    一時は天皇にも献上された台湾コーヒーもその後衰退し、長らく栽培面積は縮小される一方でしたが、気候条件がコーヒー栽培に適している事もあり、近年その品質の良さが注目されています
    こちらのお店はスタイリッシュな珈琲店というだけではなく、台湾コーヒーを世界に通用する高水準なクオリティに押し上げる為に、農家への支援、技術の向上、地産地消のサプライチェーンを活かしたコーヒー文化の定着を目指し、日々努力を重ねているそうです
    日本の農業支援の芽が約100年の時を超えて、台湾の若者たちにバトンを引き継がれ、大きく花開く様子はとても頼もしく感じました
    能書きが長くなりましたが、このお店の特徴は同じコーヒーをアイスとホット両方で楽しめるメニューが多いという事、むしろこのスタイルがこのお店の主流、オーダーした森高砂ブレンドの味は果実味がありアイスはのどごしがスッキリ、ホットはコクのある珈琲でした

    リノベされたお店は入口あたりが豆の販売、奥がカフェになっています
    お洒落な店内
    試験管のような器にアイスコーヒーが入っていて、手前のガラスの器に入れて頂きます

    メニューがうまく撮れなかったので載せていませんが、森高砂ブレンドの他に南投県や雲林県(台湾コーヒーの産地の名前)等のブランド名コーヒーがあり、それぞれの特徴が日本語で説明されています
    面白いメニューに金木犀やローズのカフェラテ、シナモンりんごウィンナーコーヒ等バラエティーにコーヒーを楽しめるメニューと、軽食、デザートも豊富でした

    高級台湾茶をお手軽にしてくれる店

    こちらのカフェから10分ぐらい歩いた場所に、創業1883年、台北で最も歴史のあるお茶のお店があります、『林茂森茶行』という看板の新しい現代的な雰囲気のお茶屋さんが目的地かと思いきや、このお店に向かって路地を挟んで向かって右に20mぐらい歩くと、主人がいつも台湾茶を買ってくるお茶問屋の『林華泰茶行』がありました
    なぜ名前の似た2つのお店が?と思いますが、後で調べてみると『林華泰茶行』の創業家の次男、林茂森さんが独立して始めたのが新しいお店で、台湾茶に詳しい人のブログで同じお茶でもそれぞれのお店で味が少し違っているとの事でした

    誰でも入りやすい新店
    最初は詳しい人に勧められて来た本店、知らなければ入りづらい店構えです

    問屋ですが小売もしていて、販売しているお茶のリストには日本の業者さん向けなのか観光客向けなのか日本語での案内も書かれています

    日本語で読んでも知らないお茶が結構あります
    お店の人は製茶作業で忙しそう

    店舗の奥には製茶工場がありまさしく直売、高級品に感じる台湾茶ですが、ここに来ると新鮮で良質な茶葉がとてもお得な価格で手に入ります
    コーヒーも好きですがお茶も大好きな我が家で、数年前薦められて購入したこちらの台湾高山茶はティータイムの定番
    店内には銀色の茶筒がいくつも並びお客の注文に従って、実際このドラム缶のような大きさの茶筒を開けて、スコップのような道具で豪快に頼んだ茶葉を入れてくれます

    横綱級の茶筒

    いつも買うお茶は写真の300g、このお茶の特徴を今回の旅行で初めて使ってみたGoogle翻訳が訳してくれたのがこちらです、あまりにもおかしな翻訳は想像で文章を書き換えました

    このお茶は昼夜の寒暖差の大きい高地の原生林で収穫され、広大で霧に覆われて肥沃で汚染されていない豊かな土壌と、適度な降雨量のある優れた自然環境下で、手作業で摘み取った芽と2枚の葉から作られました、淹れたお茶は甘くまろやかな味わいで、繊細で上品な香りが漂い心地よい後味が残ります、その長く続く香りは最高級のお茶である所以です

    実際に買った高山茶、日本の緑茶とも一般的な烏龍茶とも違う味です

    このところ台湾茶に縁があり、先日熱海の専門店で飲茶を頂きましたが、そのお店のオーナーも『林華泰茶行』は素晴らしいと太鼓判を押してくれました、日本茶とはまた違ったお茶文化のある台湾、そのうちお茶器や飲茶の作り方も勉強してみたいと思いました
    熱海の台湾茶専門店の記事はこちらです

    とっておきのグルメと観光 記事一覧