2011年3月に発生した東日本大震災の死者・行方不明者は計22,000人を超えますが、死者の9割以上が津波によるものです。
なぜこれほど多くの人が命を落としてしまったのか、それを伝える施設が被災した各県にあり、震災の記憶を風化させないため、訪れた人に是非知ってもらいたいことを説明する語り部など、関係者が熱心な活動を続けています。すぐに逃げれば助かったはずなのに逃げなかった、逃げられなかったという悲痛な思いを、私たちはどう受け止めればよいのでしょうか? もちろん震災前、津波に関する記録や言い伝えがあり、沿岸部に住んでいる人の知識もありました。しかし実際にそれまでに大津波を経験してきたわけではありません。自分のところまで津波が来ないとの思い込みや津波についての誤解がたくさんあって、大きな災いを産んでしまったとも言えます。大きな津波が来るという情報が伝わらなかった事例もたくさんあります。地震直後に家族を探しに行って津波に遭ってしまった人も多くいます。津波による死は、自然災害であると同時に、判断と行動の問題でもあったということです。伝承施設で事実を知ることにより、後から考えれば合理的でない判断だとされる行動が極めて多くの命を奪ったことについて、深く考えるきっかけになります。 ここでは、宮城県にある震災伝承施設を紹介します。
南三陸311メモリアル 〈道の駅さんさん南三陸 内〉 宮城県本吉郡南三陸町志津川字五日町200番地1 「防災減災について、自分ごととして考え続けるきっかけを提供する施設」がコンセプトで、町民たちの言葉や語りなどを震災伝承の柱にしながら、事実を知るだけではなく、「もし自分がそこにいたら、どう考え行動するか」を1分間の対話タイムで考えるラーニングプログラムなどを提供しています。また、行政の情報伝達の課題、防災無線の限界についても考えさせられます。
南三陸311メモリアル
館内の展示
私は、メモリアル施設見学の後、南三陸さんさん商店街のフードコートで、新鮮な魚介の詰まった海鮮丼を頬張りました。
南三陸さんさん商店街
南三陸さんさん商店街の店舗
フードコートにはこたつ席も
海鮮丼と蟹だしの味噌汁
石巻南浜津波復興祈念公園 みやぎ東日本大震災津波伝承館 宮城県石巻市南浜町2丁目1−56 石巻市は約4,000人が亡くなった最大の被災市町村で、その中でも南浜地区は津波と火災に襲われ、500人以上が亡くなりました。この地区の集落の跡を整備した石巻南浜津波復興祈念公園は、亡くなられた方々を追悼し、記憶と教訓を伝承し、復興への強い意志を国内外に示す目的で作られました。
石巻南浜津波復興祈念公園。震災前の街並みの写真も表示されている
この公園の中に、みやぎ東日本大震災津波伝承館があります。この施設は、震災の記憶と教訓を永く後世に伝え継ぐとともに、宮城県内の震災伝承施設などへ誘うゲートウェイの役割を果たしています。リアルな津波の映像や被災者の証言等によって「逃げるしかない」ことを訴える映像や、震災伝承施設、語り部活動を行う団体、地域の取組みの紹介などにより、わかりやすく学ぶことができます。
石巻市震災遺構門脇小学校 宮城県石巻市門脇町4-3-15 地震が起きた後、学校にいた児童や教職員たちは裏手にある日和山(ひよりやま)に避難しましたが、地震から約1時間後に巨大津波が襲来し、火災が起こりました。体育館や展示館では、津波で破壊された車両、再現された応急仮設住宅、震災の写真や映像、被災者の言葉や記憶表現(詩・絵)などが展示されていて、津波とそれがもたらす火災について知ることができます。
日和山公園に逃げた人は無事だった
東日本大震災慰霊碑(日和幼稚園被災園児慰霊碑) 宮城県石巻市門脇町5-13-15 日和幼稚園は山の中腹にあり、津波が来る場所ではありませんでした。地震発生時、園内にいた園児たちは全員無事でした。 しかし、揺れが収まった10~15分後、大津波警報が発信されているにもかかわらず、バスは園児を乗せ出発し、園児を保護者に引き渡そうと海沿いの街を走っていて津波に遭い、園児5人が犠牲になりました。
宮城県石巻市震災遺構大川小学校 宮城県石巻市釜谷字韮島94番地 河口から約3.7㎞内陸に位置する大川小には、津波は到達しないと思われていました。地震発生後、児童たちは校庭に避難しましたが、避難先についての判断が定まらないまま時間が経過し、津波は川を遡上し、校舎の屋根(8.6m)までの高さとなって襲いました。児童74名、教職員10名が犠牲となりました。周囲には低い山もありましたが、そこへ直ちに避難する判断がなされなかったことが、後に大きな議論となりました。
東松島市東日本大震災復興祈念公園 東松島市震災復興伝承館 宮城県東松島市野蒜字北余景56-36(旧JR野蒜駅) 仙石線野蒜(のびる)駅で上りと下りの列車がほぼ同時に発車してすぐ、激しい地震が襲ってきました。非常停車した上り列車の乗務員は、直ちに梯子で乗客を降ろし、指定避難場所である野蒜小学校へ誘導しました。人のいなくなった駅舎も上り列車も、その後に襲った津波に飲み込まれ、大きく破壊されました。一方、下り列車の停車した場所は野蒜小学校まで距離があるため、そこまで歩いて行くのが危険であり、列車が止まったのがやや高い位置だったので、列車内に留まると判断しました。周囲は津波で水浸しになりましたが、幸いにも列車まで水が到達することはありませんでした。全員が列車内で一夜を過ごし、翌日、避難所に退避しました。 震災後、野蒜駅を含めて仙石線の線路は高台に付け替えられ、旧駅舎が保存されて東松島市震災復興伝承館となり、また付近は東松島市東日本大震災復興祈念公園として整備されました。
震災遺構仙台市立荒浜小学校 宮城県仙台市若林区荒浜字新堀端32-1 地域の指定避難場所だった小学校ですが、海岸から約700m離れた同校には、2階まで津波が押し寄せました。しかし、避難した児童や教職員、地域住民など320人全員が助かりました。校舎をそのまま遺構として保存・公開しています。どのような判断と行動が命を守ったのか、時系列で学ぶことができます。
かつての荒浜を模型で展示
名取市震災メモリアル公園津波復興祈念資料館 閖上の記憶 宮城県名取市閖上東3-5-1 かつて5,000人以上が暮らしていた閖上(ゆりあげ)地区は、津波で壊滅的被害を受けました。閖上中学校の14人の生徒を含む800人近くが津波の犠牲となりました。現在この場所は名取市震災メモリアル公園として整備されており、また日曜日には朝市が行われています。
かつての閖上の航空写真
閖上から望む蔵王連峰
館内では、旧閖上中学校で実際に生徒たちが使っていたロッカーや、亡き生徒の遺品、痕跡から津波の高さが確認できるドアなど、震災の記憶をたどる展示物や映像資料を、館内常駐スタッフの案内で見ることができます。海と名取川河口に近い閖上地区に、どのように津波が押し寄せたのか、発災当日の時系列を、写真・映像・体験証言を通して具体的に知ることができます。館内の語り部ガイドのほか、出張語り部、オンライン語り部にも取り組んでいます。
閖上では地震から津波到達まで約1時間あったにもかかわらず、なぜこれだけ多くの死者が出てしまったのか、名取市の東日本大震災第三者検証委員会が調査して報告書をまとめました。 閖上を含む仙台平野では、三陸沿岸のような大津波の経験が少なく、住民の間に、津波はこの地域までは来ないという認識が広がっていました。地震直後に避難した人は2割程度で、多くの人は家族の安否確認、近所との情報交換、家の片付け、避難準備などをしており、避難の開始が遅れました。また、津波警報や避難情報が十分伝わりませんでした。地震で停電してテレビは見られず、防災行政無線が故障していたこともあって、市の避難呼びかけを聞いた人は2割程度でした。避難手段の約6割が自動車で、道路渋滞が避難の遅れにつながりました。また、避難場所の閖上公民館についての認識が「津波避難」ではなく「災害時の避難所」だったため、公民館のグラウンドで様子を見て建物の2階に上がらないという人も多くいました。さらに閖上中学校などへ移動する人は、移動中に津波に遭いました。多くの住民は、実際に津波、黒い水の壁を見て初めて危険を感じたと証言しています。
山元町防災拠点・山下地域交流センター 宮城県亘理郡山元町つばめの杜1-8 防災情報コーナーではさまざまな媒体を通し、津波災害の伝承や防災教育への活用、防災意識を高めることを目指し、パネル展示などが行われています。また、震災関連書籍を多数所蔵しています。この施設は、内陸に付け替えられた常磐線の山下駅の隣にあります。
現在の山下駅
山下駅ホームから旧駅舎方面を望む
伝承施設は各地に整備されていて、実際に災害を体験した方々の努力で、津波などへの被災の状況についてわかりやすく学ぶことができます。犠牲になった方々に祈りを捧げつつ、命を守る行動について考えるために、是非お出かけください。
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